2009年7月第1週のメッセージ
「もう罪を犯してはなりません」―罪と信仰―
●ヨハネ伝5章1-18節(P.182)
はじめに: 今日の聖書箇所は当初二か所で、新約はヨハネ、旧約は出エジプト記15章でしたが、新約のヨハネだけに絞って見ることに変更しました。ここでは、イエス様は癒しを与えた男性に、「もう罪を犯してはなりません」という、他に例を見ない厳しい言葉を語っておられます。では、この男に言われた「罪」とは何でしょうか?又、この箇所は、マルコ2章1-12節の中風の人の癒し、ヨハネ9章1-12節の生まれつきの盲人の癒しとの関連が深く、比較して考えたいと思い、礼拝では「招きのことば」に取り入れています。
一、何故、ベテスダの池か?
1、池のそばに多くの者が伏せっている不思議*1-6)
●2節をみると、羊の門の近く、ベデスダと呼ばれる池があり、五つの回廊もあったというが、その池のそばには大勢の病人、盲人、足の萎えた人、やせ衰えた者が伏せっていたとあるから、その池は「ユダヤの神殿からの癒し」が期待されて多くの人が集まる所であった。現在でも、いくつかの癒しの聖地と呼ばれる所があり、泉がある個所が多い。
5節では、イエス様は38年病気にかかっている人を見て彼に声をかけておられるが、何故イエス様は、大勢の中からこの男に声をかけられたのだろうか?おそらく38年間という長い年月を経ていることが風貌などに顕著に出ていて憐れみの気持ちを起こさせたものと想像できる。
2、「水がかき回される」とはどういうことでしょうか?*7,8)
●(質問です)7節では、「よくなりたいか」の質問に対して。男は、「はい。良くなりたいです。助けて下さい。」とは答えていません。その答えは良かったでしょうか?
●男は、「はい。良くなりたいです。助けて下さい。」と答える代りに、「主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えます。さらに、イエス様はその答えを聞いて8節のように言われます。
(二つの目の質問です)「水がかき回されるとき」というのはどういうことだと思いますか?誰が水をかき回すのですか?また、何故そのようなことが、その場所で起きたと思いますか?
(三つの目の質問)「行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」という答えはイエス様を十分納得させる答えだったでしょうか?それとも不十分だったでしょうか?自分が遅くていつも間に合わないという答えは、どのような状況を示していますか?
(四つ目の質問)招きの言葉で取り上げたマルコ2章3-5節(P.66)では中風の人を4人の人が担ぎ、近づくことができなかったので屋根をはがし、穴をあけて、つり下ろすということまでしています。この場合と比較してどのようなことが言えますか?
3、すぐに癒された男*9)
●ヨハネ5章では主が「起きて、床を取り上げて歩きなさい」との言葉を出されると、すぐにその人は癒されて、床を取り上げて歩き出した」とあり、聖書は、このようなことは驚くには当たらない、イエス様は創造主ご自身であるから、全てをご支配されていて、「死も、病も」解決される方だと教えている。
●使途の働きをみると、弟子たちですら同じ力を与えられ、死人を生き返らせ、病人を癒されている。
●ユダヤ人たちは癒された日が安息日であったから、「律法違反」ということで問題にし、癒された本人に対して「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」と言っている。
(五つ目の質問です)10節の「安息日は床を取り上げてはいけない」とのユダヤ人の言葉は聖書の正しい解釈ですか?また、「床を取り上げてはいけない」というのはこの男にとってどういうことになりますか?
●(六つ目の質問です)イエス様は、安息日の癒しに対して、ユダヤ人から何度も抗議を受け、そのつど見事に反論されています。イエス様は何と言って反論されたでしょうか?
●七つ目の質問ですが、旧約聖書の律法には、本当に「何もしてもいけない」と書かれていますか?出エジプト記20章8-10節(P.130)を見てどう思いますか?すべてのことをしてはいけないと書かれていますか?また、そもそも安息日の目的は何ですか?
二、この男の「罪」とは何か?*14)
1、それが誰であるか知らなかった*13)
●「床を取り上げて歩けと言った人はだれだ」というユダヤ人の質問に対して、癒された男は答えることができなかった。癒された男は、それが誰であるかを知らなかったからであると13節にあり、さらに、13節には、「人が大勢そこにいる間に、イエスは立ち去られたからである」とある。しかし、その後、イエス様は宮の中で男を見つけて14節のように言われている。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と。
●13節でイエス様が立ち去られたこと、それが、男がイエス様の名を知ることができなかった理由だとの説明になっているが、本当にその説明だけで十分だろうかという疑問が残る。最初の時、あるいは直後に聞く機会がなかったとは言い切れない。男がそれをしなかったのはなぜだろうか?
2、この男の「罪」とは*14)
●この聖書個所、この男に対してのイエス様の行動は、ほかの男女の癒しの場合と大きく異なる点が多い。いくつかを比較してみたい。
①長血の女場合:(ルカ8章43-48節P.128)「着物の房にでも触れれば癒されると信じていて」、こっそり後ろから着物の房を触った女に対して、触った理由を聞いている。そして、理由を聞いて、「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです」と彼女の信仰を褒めている。
②盲目のバルテマイは:(マルコ10章46-52P.88)イエス様が来られたこと聞き、制止を振り切って大声で「ダビデの子イエス様!」と叫んでいる。「何をしてほしいのか」というイエス様の質問に対して「先生、目が見えるようになることです」と答え、「あなたの信仰があなたを救ったのです」との言葉とともに、すぐに癒されている。
●以上2つの例と比較して考えてみて、イエス様がこの男に言われた「罪」という言葉を考えてほしい。
(八つ目の質問ですが)この男の罪とは何だったでしょうか?二つ挙げてください。
1)
2)
3、「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」とのことば*14節)
●14節の二つの言葉は大変重大な示唆を含む言葉である。ひとつは今見た「罪」であり、もう一つは、「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」とのことばである。起こるかもしれないではなく、起こるからと断定されていることに注目しないといけない。
(九つ目の質問ですが):14節後半の言葉(注意)は私たちに何を教えていますか?
●ここで、最近起こった二つの対照的なことをお話ししたい。ひとつは、大人のアトリエの生徒のご近所の方の話で、生徒の方が言われるには、先週近所の親しい方がなくなった。その方は65才(?)まで働いて、3カ月前に退職し、すべてに元気で何も問題がないと思われていた。しかし、先週、車でたばこを買いに出かけ、タバコ屋の前で車を止め、そのまま心筋梗塞を起こして急死されたという。私は、その人を責める気持ちは一切ないが、「あなたの若い間にあなたの創造主を覚えよ」というみことばを思い出す。人の一生は誰にもわからない。主に救いを求めていなければいけない。
もう一人の方は、クリスチャンの女性の母親である。この方も、全く同じ心筋梗塞を起こした。梗塞を起こすと10分以内に手当てをしないと命が危ないと聞くが、この方は、クリスチャンの娘が梗塞で倒れた直後に家を訪れたので助かった。倒れたその日に、ちょうど食事の約束をしていたと聞く。命を取り留めた母親は、「奇跡的に助かった」と感激し、牧師の私がお見舞いに行った際、部屋に入るなり「先生、信じます!」との言葉を出された。私たちは、クリスチャン女性と教会の祈りが聞かれたと信じ、感謝している。
三、何故、この男を癒されたのか?
1、ある生まれつき盲目の男との違い*ヨハネ9章(P.195)
●最初にふれたとおり、5章の38年重い病だった男の癒しの場合は、「もう罪を犯してはなりません」と言われており、ほかの聖書個所と比べて特異である。特にこの言葉は9章の生まれつき盲目の男への言葉と対照的である。
●ヨハネ9章1-3節(P.195)で、「彼が盲目になったのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか、それとも、彼の両親の罪ですか」の問いに対して、「この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」との主の答えがあった。
この場合:イエス様は、盲目の人には罪が全くないということを言われたのではなく、「神のわざ=神の栄光」が現れるためだと、後者を強調されている。当時のユダヤ人社会では病気や障害は、本人や親の罪と受け取ることが多く、「健康で成功している者は罪がないから」であるとも考えた。これは、現代日本人にも多くみられる。
さらに、9章では、この盲人に、5章の男のような「的外れな」言動の記述が一切ない。イエス様は、彼自身の罪には一切触れずに、憐れみを持って癒しをされたが、このことによって神のわざ=栄光が現れたわけである。
●しかし、5章の男の場合、38年間もそこにいたということ、助けを求めるなどの努力がみられなかったこと、ほかのせいにしていたこと、イエス様のことを知っていなかったこと、積極的に知ろうともしなかったこと、これらのことが問題とされたわけである。
2、癒された男も、行ってイエスの名を告げた*15)
●イエス様は、「罪=不信仰」のある男に戒めを与えられたが、にもかかわらず、名前も呼んでいないこの男を癒され、のちにもう一度現われてご自身を示された。
おうして、遅ればせながら、15節で男はユダヤ人のところに行って、自分を救ったのはイエス様だと告げている。こうして、彼もキリストを告げ知らせるということができたわけであるが、それは、主イエスに対する迫害を起こしたと16節にある。
では、この15節の行為は良くない行為だったのだろうか?
3、神の栄光=迫害と証しのため
●17,18節では、ユダヤ人たちの迫害は激しくなり、ますますイエスを殺そうとするようになったとあるが、イエス様ご自身も、いっそう「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」とあり、5章の男の癒しも、9章の盲目の音の癒しと同様、「神のわざが現れ、神の栄光があらわされる」という目的のためになさったということを教えている。
●祈り:」大寺俊紀
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