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2009年7月25日 (土)

2009年7月26日のメッセージ

「知恵と霊を与えられる」
●聖書箇所:出エジプト記36章1節
一、「聖所建設」の奉仕をするということ
1、「永遠」に関わる重大なこと 
●36章1節は聖所(幕屋、神殿)の奉仕のすべての仕事をする者の資格、条件を教えている。36-40章は、具体的な幕屋の建設が詳細にわたって書かれているが、「天国の影」としての幕屋建設の詳細ではなく、真の天国への救いとその為の働きを学びたい。
「聖所造りに関わる、奉仕をする」ということばだけを文字通りに受け取ると、泉南市内にも多くの例が見られることから、多くの人にとっては、「それは、宗教家の仕事、あるいは一部の教会員や役員がすること」と捉えて、自分には関係がないと思うに違いない。
●しかし、聖所=幕屋、神殿造りに加わるということの、私たちにとっての真の意味は、単に建築に関わることなく、人間にとって最も重大な「魂の永遠の救い」に関わることである。先週ヘブル書9章で学んだように、「幕屋はのちの神殿の型」、さらに、「神殿は本物の天の影」であり、キリストが手で造られたものでない本物の神殿=天に入られたのであるから、キリストが、信じる私たちを完全にお救いになられ、天に上げて下さるのである。
また、「教会とは永遠の天につながるために地上に置かれている箱船のようなもの」であるだけでなく、クリスチャン一人一人が、キリストを信じる信仰によって聖霊が宿り、一人一人が「神殿」とされ、「キリストのからだ」とされるのである。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」(Ⅰコリント3:16)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」(同6:19)
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)
●従って、「聖所造りに関わる」ということは、次のような二つの意味がある。
①人々が罪を悔い改めて、救われクリスチャンとされるための働きをする。
②救われた者が、共に学び、礼拝、奉仕をし、「キリストのからだとしての教会」を建て上げていく。 (建物としての会堂を建てることもその一部である。)
2、聖所建設は、キリストのからだ(教会)を建て上げること
●36章からの聖所建設を今日に当てはめると、ローマ書12章4-8節の、次の賜物の記述に当てはまる。パウロは、この記述の前にまず次のように書いている。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(11章1節)
 次に、12章4-8節(P.309)では、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」とある。
●Ⅰコリント12章4-10節にも「御霊の賜物」が教えられ、「知恵」「知識」「信仰」「いやしの賜物」「奇跡を行う力」「預言」「霊を見分ける力」「異言」などの賜物が教えられ、すべての賜物や奉仕は、みな同じ主から来るといパウロは教えています。(P.335)
●モーセがイスラエルに教えた幕屋、聖所建設は、こうして、今日「キリストのからだ=教会を建て上げること」として教えられ、作業の一つ一つは「からだの器官」のように、助けあい、支え合い、それぞれがなくてはならない働きとして主に受け入れられるように
しなさいと教えられている。

二、感動する者、心から進んでする者*35:21)
1、世の悲しみ、キリストにある悲しみ
●36章は、聖所の奉仕のすべての仕事を行う者は、「知恵と英知」を主に与えられなければならない、とある。更に見ると、35章では、「感動した者」と「心から進んでする者」21節)、「心に知恵のある女」25節)、「感動して、知恵を用いたいと思った女」26節)とある。
 30節、34節では「オホリアブ」と「ベツアルエル」が召し出され、具体的に彫刻や設計の仕事などにおいての「神の霊」を満たされている。
●絶対的に確かなこと、必要なことは、「キリストとの感動的な出会い」であろう。
「感動的な出会い」というと喜びだけを想像するかもしれないが、常に喜びが先に立つとは限らない。多くの人が経験するように、まず人間の罪、自分の罪や弱さに打ちひしがれることも多い。しかし、それらの「悲しみ、苦しみ」がキリストとの出会いを経験することによって、喜びに変えられるのである。それが「感動」でなる。
*「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10(P.353)
●キリストとの出会いとは、「自分の罪が赦され、救われなければいけない」との自覚から始まる。
○イスラエルの王ダビデは詩編23篇で次のように語っている。(P.926)
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。1」主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。2)主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。3)たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。4)」
 ご存じの通り、ダビデは殺人と姦淫の罪を犯しましたが、主からの使いナタンが送られ、激しく叱責され、悔い改めました。彼は、主からむちを受けましたが、たましいを生き返らされ、義の道に導かれました。主がともにおられるという経験をしたので、もはや恐れることは何もないと言う。ダビデは感動的な出会いを経験したわけである。
○先月の野田修司さんの場合は、弟さんは少年院の檻の中、修司さん自身も、薬物依存のために精神病院の独居房の中にいて、自分の罪に打ちひしがれたときに、「キリストが自分のために身代わりに死んで下さった」という「贖い」に感動をされた。彼らのケースはまことにわかりやすいと言えるが、それでも、野田兄弟が聖書に感動し、キリストの救いに感動した「たましいの純粋さ」は大変優れていると言えよう。
●私たちの場合はというと、普通は、「自分はまじめで特別罪を犯していない」という先入観に頼り、求めようとしない。確かに、今日の日本では90%以上(99%かもしれない)の人は、警察のやっかいになったことがないかもしれない。特別人を苦しめる、ひどい目に遭わすということもなかったかもしれない。しかし、先週学んだ十戒にあるとおり、創造主の聖さの基準は高い。「常に主だけを礼拝し、偶像を礼拝したことがない、休日はすべて礼拝を守ってきた。他人を怒ったり、欲しがったりしたこともない・・・」このような人は一人もいないはずである。また、戦争、動乱などの中では、一夜にして「百鬼夜行」「群盗山に満つ」とばかりに、群衆が略奪に走るという光景をテレビニュースでしばしば目にしている。(最近の中国に多い)
●更に、主イエスは、マルコ7:21-23(P.79)で、「人の内側から出てくるものが人を汚すのです」として、「悪い考え」「不品行」「盗み」「殺人」「姦淫」「貪欲」「よこしま」「欺き」「好色」「ねたみ」「そしり」「高ぶり」「愚かさ」などが人の内側出てくる罪であり、すべての人には罪があると言われている。実際の行為だけでなく、「心の中の思い」が罪として人を汚しているのである。
●さらにいえば、「老、病、死」はその罪の結果である。すべての人に死があるのは、すべての人に罪がある結果だと聖書は教える。「老、病、死」を認めない人はいない。しかし、そのことを「当たり前の自然現象」として疑わないこと、死の解決がないのだろうかと期待しないこと、それが人を救いから遠ざける不信仰の芽である。
確かに80歳、90歳生きた人で、色々病気を抱えている人は、その苦しみゆえに「いつ死んでも良い」と口にするかもしれないし、祖父母が大往生した場合、子どもたちはごく自然に死を受け入れるであろう。昔のことばに「被馬鞭すいを恐れず」というのがあり、疲れた馬に鞭を打っても動かないように、人も追い詰められると何ものも恐れなくなると言われる。しかし、自分自身の老いや病、死を予感して不安を感じない人はあるまい。愛する人や家族が、突如大病や事故に見舞われて平気な人もいるまい。ましてや「非業の死、不遇の死」「重病」「自殺」などは、人を激しく精神的に追い詰める。親や兄弟が自殺や離婚に追い込まれたりしても平気である方がおかしいのである。また、これらのことが自分に降りかかっても、あくまでも人間的な動きだけで解決することしか考えないとすると、それは救いの道、「主により頼め」という御ことばからは遠い。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」という恵みを得ることはない。
●ここで、分かれ目は先ほどのⅡコリント7:10の「世の悲しみとキリストにある悲しみ」の差である。人はキリストに求めなければ死に至るだけであるが、キリストに求めれば希望が与えられる、ここに決定的な違いがある。
2、キリストに感動する
●あなたは自分の弱さや小ささ、愚かさなどに絶望したことがないだろうか。中には、現在天にも昇るように、すべてが順調という人もいるかもしれない。最近、ある男性に出会ったが、彼は50歳手前という若さで大会社の筆頭役員になり、次期社長候補らしい。しかし、皮肉なことに膝の靭帯を激しく痛めており、自分ひとりで椅子から立つこともできなかった。「万事塞翁が馬=ばんじ、さいおうがうま=人の禍福は量りがたい、人間何が起こるかわからない」の例かもしれないが、求められることがなければ、牧師である私でも何も助言できない。人間的な栄光や努力だけに頼るのではなく、へりくだって主を求めてほしいと、ただ祈るだけである。
●聖書には、救いを求めてキリストのそばにきた人が多く紹介されている。ルカ7章36-50節(P.124)を開くと「罪深い女」と呼ばれたある女(遊女)は、人々のさげすみの目を受けながらもキリストのそばに来て、香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった。男たちは彼女に白い目を向け、さらに彼女の行為を受け入れるキリストに疑問を抱いた。しかし、主は、彼女の行為を褒め、彼女のしたことは後の世にまで伝えられるであろうと言われた。彼女は非難ではなく、赦しと称賛を受けたのである。それは、素晴らしい感動となった。
●聖書には、キリストに救いを求めた多くの人が紹介されている。長血の女(婦人病)はイエス様の着物のふさにさわって癒された。会堂管理者ヤイロは娘が死の床にあったが、主イエスのことばだけを受けて死の床からのよみがえりをさせていただいた。生まれつき盲目の男たちも大勢癒され目が見えるようにされた。すべてが感動的な主との出会いであった。
三、御霊に満たされる恵み
1、御霊を求める
●ヨハネ3章のニコデモというユダヤ人の指導者の場合は「たましいの救い」という問題について聞きたいと、主イエスを訪ねてきた。(P.176)
 イエス様は、ニコデモに対して「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えられた。ニコデモはこの答えに当惑したが、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と、御霊=聖霊についてご説明していただいた。水は「悔い改め」を意味し、「悔い改めた者には聖霊が送られ聖められる」という恵みを教えていただいたのである。
 イエス様は、更に続けてご自身の十字架の死によって信じる者が永遠の命を持つことも14-15節で説明されたが、自分の罪のためにイエス様が身代わりに死んで下さった、この事を信じる者に救いと保障としての聖霊が送られる、これが、聖書の福音(良き知らせ)である。
2、聖霊はすべてを教え、父の御心をなす
●ニコデモに聖霊を教えられた際、ひとは「御霊によって生まれなければならない」と話されたが、罪と十字架の赦しを信じるとき、父なる神から、キリストの御霊=聖霊が送られ、人の魂は新生させられ、主にある新しい歩みをさせて下さるのである。しかし、人は、風がどこから来てどこに吹くかを知らないように、御霊によって生まれ変わるのも、人間の思いではなく主の思いのままになされる。主は、人の心を見られ、救われる信仰があるかどうかを判断されて救いをなされるのであるから、すべて人の思いを超えている。人間とすれば、主を恐れ、へりくだって求めること、これがすべてである。
*箴言1:7(P.1057)「主を恐れることは知恵の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」
●イエス様は、弟子達に特に聖霊を教えられていた。それは、「助け主」であり、父の御心をなされる。私たちのうちに住んで下さって知恵、知識のすべてを教え、ことをなさせて下さるのである。
*ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
*ヨハネ14:26(P.211)「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は,あなた方にすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」
●また、聖霊は、私たちをきよめて、罪から離れ、御霊の思いに導いて下さり、義の実を与えて下さるのである。*ガラテヤ5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。・・・」

●へりくだって,主を恐れよう。知恵と訓戒を求め聖霊の注ぎを受けよう。
●祈り

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2009年7月18日 (土)

2009年7月19日のメッセージ

「幕屋といけにえに見るキリストの救い」
●聖書箇所:出エジプト記29章14節
「はじめに: 創世記のシリーズに続いて出エジプト記のシリーズを行っていますが、聖書日課で読んでいると、「一体何故このような教えが聖書の中にあり、学ばなければならないか」という疑問があると思います。しかも、旧約聖書は、大変長文で詳細に書いていて、一日一章では、モーセ五書だけで167日約半年間かかります。
そこで、私は、かねがねそうしていますが、これらの箇所は数回ずつまとめてお話しし、せっかくの聖書の通読に理解が深まり、聖書全体の素晴らしさを知ってほしいと思います。
ただ、律法や幕屋やいけにえの箇所を繰り返し取り上げることはせず、5-10章を整理して話します。そして、これらの箇所の歴史的な役割を見た上で、現代の私たちにも意味のある教えであることをお話しします。

一、幕屋の役割 *指示:25-31章+建設:35-40章)
1、天国の「写し」「影」
●エジプトから脱出させていただき、シナイ山の麓で、「十戒と律法」を授けられたイスラエルの民は、続いて、「契約の箱」を作りなさい、「幕屋=移動式の神殿」を作りなさいとの指示を直接受ける。25章9,10節(P.139)を見ると、「彼らが私のために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと同じように作らなければならない。」と指示している。
 聖所を造るなら、その中に住むとは言わないで、「彼らの中に住む」と言われる。「契約の箱」の場合も、その中に住むとは言わずに、次のように語っている。「わたしはそこであなたと会見しその『贖い=あがないのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人に付いて、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」(25:22)つまり、天地を造られた創造主ご自身が、人間の作る小さい神殿や契約の箱にはいるということではなく、そこを「主の御臨在の型とする」というのである。これは本物ではなく、天にある主の場所の写しとして信仰の中心、ことばを聞く場所、生活の中心としなさいということである。これは、現在で言えば「教会」にあたる。
注*25章18-22節にある「ケルブ=単数」と「ケルビム=複数」とは、契約の箱のふたにつけられた「翼がある生き物」であるが、それは、天にいて主を礼拝する生き物(御使いのような生き物?)の一つで、それは、礼拝の対象=偶像として置かれるのではなく、箱の内部に向かって翼を広げ、常に主を礼拝する姿勢を持っている。
2、これらが果たした役割*資料の図参照
●ここで、資料の絵を見て下さい。・・・これは、日本の神社の絵ではなく、聖書に基づいて造られた当時のものの絵である。「契約の箱」は、外観は私たちがよく知っている「日本の神社の御神輿=おみこし」とそっくりである。それを担ぐ神社の神官の烏帽子(えぼし)と白装束も、聖書の記述にそっくりである。
次に、幕屋や神殿の図も、日本の神社によく似ている。(理由は後述)イスラエル人は、この移動式のテントの神殿=幕屋を設営し、撤収し、また設営するということを繰り返した。そして、後に約束の地に入ってからソロモンが巨大な石の神殿を建てるまで礼拝の場所としての役割を果たしてきた。
●彼らは、移動するときは、幕屋をたたみ、契約の箱を中心にして行進した。また、滞在するときは、幕屋を組み立てて張り、幕屋の奥にある部屋(至聖所)に契約の箱を安置した。この至聖所は、年に一度だけ、大祭司が入るという特別な場所であった。
●ここで、質問ですが?では、このイスラエルの教えられた契約の箱や幕屋、神殿の役割や、現状はどうなっているか?イスラエルには、今でも契約の箱を担ぐ宗教儀式や、幕屋や神殿はあるだろうか?
答え:①契約の箱=
   ②幕屋(神殿)=
3、幕屋に見るキリストの「型」*25:30-33)P.140
●幕屋は、35-40章で造られる「移動式テントの神殿」である。東西に約44.5メートル、南北に約22メートル。(一キュビトは44.5㎝)これは、40年間荒野で過ごす間使われ、ソロモンが建てた神殿は幕屋の規定に基づいて建てられている。その後は一切記述がない。
●幕屋の一番奥で、最も神聖な場所には机が置かれ、「パン」(30節)が置かれた。次に「燭台」(31節)が置かれ、ともしびがともされた。また、燭台にはアーモンド(33節)の花の形の装飾が施された。
「パン」は、「日ごとの糧」は主から来るという「感謝のしるしと言えるが、後に、主イエスは「わたしはいのちのパンである」と呼ばれた。また、捧げられたパンは通常は祭司だけが食した。
「燭台」は窓のない至聖所において実際的な役割を果たしたが、のちに、キリストは世を照らすまことの希望の光=キリストとして紹介された。
「アーモンド」は春に一番最初に咲く木で、民を愛し、育む創造主なる神の素晴らしさと、約束を成就することの象徴として用いられていると言われる。
●民数記17:8(P.262には、モーセの兄アロンの杖だけが芽を出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいたとあり、これらから見て、アーモンドは「復活、再生」を象徴する花(実)との解釈も一部にはある。主は、この後、アロンの杖を契約の箱に入れよとの命令を出しておられる。(10節)
●さらに、エレミヤ書1-11-12(P.1237)では、エレミヤは幻の中でアーモンドの枝を見ている。それに対して、主は、「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」と言われ、アーモンドが春一番に花をつけるように、私の約束は必ず、早く実現すると言われている。
問③:「キリストは世を照らす真の光(=燭台)である」の聖書個所は?
問④:「キリストは天から下ってきたまことのパンである」の聖書個所は?
問⑤:「燭台」についてはどこに書かれていますか?(7つの燭台は7つの教会、その真ん中に立つ方はキリスト):
●幕屋に仕える大祭司の服装も28章で教えられている。大祭司はイスラエルを背負って立つことを示している。キリストもイスラエル、全人類の罪を背負って、(贖いのために)取りなし=贖い(代価を代わりに払って下さる)をして下さることを示しているのである。

二、祭司任職用の儀式、いけにえの意味
1、水の洗いと油注ぎ*29:4 P.146)
●次の「レビ記」では、祭司による民への儀式の詳細が書かれているが、その前に、先ず29章では、祭司(アロン)、大祭司(アロンの子ら、但し、直接の子だけとは限らない)に対して「聖別」することを指示されている。これは、私たちにとってどのような意味があるだろうか?
●まず、最初は4節の手や足を水で洗うことである。それは、祭壇や幕屋で奉仕をする者が、その前に必ず行うことで、洗盤は大きな青銅製の鉢。洗うことは、字義とおり清潔すなわち罪からのきよめを表わす。これは、「キリストによる罪のきよめ」の「影」であり、クリスチャンの洗礼の「影」でもある。キリストを信じ、罪が赦され、きよめられて初めてキリストの子、しもべとして仕えることができる。(特権が与えられ幸いなことである。)
●次に、「油注ぎ」は特別な働きのために選ばれた者であることを意味している。クリスチャンにとっては、「油注ぎ」はイエスがキリスト(油注がれた者)であるという新しい中身を与えられている。
2、雄牛、雄羊のほふり*10-22節)
●10節、15節ではほふる(屠ると書く、屠殺)前に、祭司職につくものが、ほふられる雄牛や雄羊の頭に手を置いている。
●質問7:ほふられる雄牛や雄羊の頭に手を置いている理由は何か?
 また、雄牛や雄羊の血を取って、祭壇の角につけるのは、いつまでも見えるしるしであり、残りを祭壇の土台に注ぐ(12節)理由は罪をかぶってもらう(引き受けてもらう)という象徴である。
●質問9:13-14節では内臓やそれを覆う脂肪は「祭壇の上」で焼いて煙とされるが、逆に、肉と皮と汚物とは、宿営の外で、火で焼かれなければならないとある、それは、特に「宿営の外で」という言葉は、何を象徴(意味)しているか?
●20-21節の血をアロンの耳たぶや右手の親指、右足の親指に塗られてきよめられる理由も、お分かりだと思うが、「祭司は主の言葉をよく聞いて、すべての力を捧げて従いなさい」という意味となる。

三、幕屋などの歴史的意味と今日的な役割
1、契約の箱、幕屋、イスラエル神殿の現在
1)「契約の箱」は、①まず、イスラエル民族を率いて荒野の民の先頭に立ち、そのところからモーセに語り、同時に、箱のあるところでは、イスラエルに勝利をもたらした。しかし、カナンの地に入ったあと、約400年間という永い躯着状態があり、「裁きつかさ」の時代が続き、イスラエルが完全に王国を築くまでは、契約の箱の存在があやふやになり、ある時は戦いの中で奪われる、あるいは取り返すなどの混乱もあった。しかし、その中でも、敵に奪われた契約の箱はその地の住民に大被害をもたらし、敵が箱の処置に困るということもあった。
②しかし、ダビデが統一イスラエルの王に付いたとき、彼は真っ先に「契約の箱」を運び入れることに熱意を持ち、一度、手順を間違えて失敗するが、二度目には正しい方法でエルサレムに運び入れることに成功する。
③更に、彼の子ソロモンが神殿を建設したとき、契約の箱は正式に神殿の奥の至聖所に安置される。ここまでが、契約の箱の歴史的役割であると言える。
④神殿が出来て、約400年後、ユダが滅亡し、バビロンに捕囚されたBC606年の混乱時に紛失した模様で、その後神殿が再建されたときにも契約の箱の関する記述はない。
⑤聖書の中で、次に触れられているのは黙示録11章19節(P.489)で、そこには次のように書かれている。(第七のラッパが吹かれて後)「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
 これは、歴史的な役割を終えた契約の箱は地上に残される必要がなくなり、主が天に上げられているということであり、さらに、黙示録21章22節では、「私は、この都の中に神殿を見なかった」となり、未来の新天新地では、神殿もなく、「神である主と、子羊(キリスト)が神殿だからである」と教えている。建物としての神殿すらないということは契約の箱もないと言うことになる。(本物の神殿である天に、影は必要ない)
2)「幕屋と神殿」の場合は、歴史的な役割はもっと短い。
①「幕屋」は厳密に言うと荒野での40年間でほぼ終了したと言える。その後、カナン定住後はヨシュアがシロに建て、(ヨシュア18:1)その後、ノブ(21:1)ギブオン(Ⅰ歴代誌21:29)と移された。ソロモンが石の神殿を建設したときは幕屋が参考にされ、これで役割を終え、「イスラエル神殿」として受け継がれる。
②イスラエルの神殿は最初ソロモン時代に建設され、(紀元前950年頃)その後、紀元前606年に破壊され、その後70年して帰還が許され、神殿も「ゼルバベル神殿」として再建されるが、当初は大変貧弱であった。しかし、その後徐々に立派になり、キリストが来られた時にはヘロデ王が40年掛けて壮大なものにした。
③しかし、キリストを殺害したイスラエルへの主の怒りはキリスト殺害40年後の紀元70年に再び破壊し、その後2000年間再建されていない。(嘆きの壁)
④未来の新しい天地には、先ほど見たように神殿はない。父なる神と子羊が神殿であると書かれているから、神殿についての歴史的な役割は、紀元70年を持って終わっているように見えるが、唯、この先に「小規模の神殿」が一時的に建設される可能性はある。イエス様が再臨されるときに、「聖なる所に立つ」とのことばがあるので、中東和平交渉が成立し、小規模な神殿だけが建設されているかもしれない。しかし、それ以外には意味がない。
2、幕屋=後の神殿の日本の神社との一致
●ところで、イスラエル神殿は日本人にとって一つ問題がある。参考図を見て先に述べたとおり、日本の神殿、神社や祭司の服装は100%近く幕屋や祭司の服装,後のイスラエル神殿と同じである。そこで、「日ユ同祖論=日本人とユダヤ人の祖先は同じである、という説もある。これに関しては、古代の日本にイスラエル、ユダヤ人が渡来し神殿の建設や祭司の服装、祭儀方法などを教えたことは多くの事実があり同意するが、だからと言って、神社に参っていれば救われるということではない。日本人はユダヤと同じ祖先であり、同族だから救われている=神の民であるということでもない。
●日本に渡来した彼らは、紀元前721年に大きな罪を犯し、周囲の国々の偶像礼拝を取り入れたために滅亡させられた「離散の民」である。中国にも彼らの足跡があり、世界中に離散したが、特に日本の神道に影響を及ぼしたのは事実と言えるが、本当の救いは、唯一人の救い主キリストを信じることである。旧約が示すものも、キリストの贖い(あがない)である。これなくして、形骸化したものを継承しただけでは意味がない。
3、私たちにとっての「幕屋、神殿、聖所」
●イエス様は、人類の罪のためのいけにえ(なだめ)として、「夕暮れに」ささげられ、そして、エルサレムの町の外であるゴルゴダの丘=「宿営の外で」捨てられたのである。
出エジプト30章10節(P.150)では、大祭司(アロン)は、「年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする」とあるが、この記述とおり、イスラエルは、毎年毎年いけにえを捧げ続けてきた。
しかし、イエス・キリストは「真の贖い=あがない、身代わりの代価」のために、「動物のいけにえ」ではなく「ご自身をただ一度」捧げられ、しかも、人が作った、「天国の影である幕屋」ではなく、真の幕屋―天国そのものに入られて救いを完成させて下さったのである。
*へブル9章7-15節(新約P.434)特に、11-12節に注目しよう。
「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、またやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」*マタイ27:51
●祈り」大寺俊紀

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2009年7月11日 (土)

2009年7月第2週のメッセージ

全人類への戒めー十戒と律法に見る主の御性質と聖さの基準ー」
●聖書箇所:出エジプト記20章1-18節
はじめに: 今週からは、完全に一日一章と同じ箇所ではなく、その流れに沿いながら、いくつか焦点を絞って連続の講解説教をします。20章は十戒と律法の中心箇所です。実は、今日の主題は、当初「全人類への戒め―十戒や律法に見る、主の怒りと赦し―」でしたが、上のものに変更しました。どちらにせよ、これらを通して、主=ヤハウエ様とはいかなる方か、人類はどのように生きることが命令されているかを確認したいと思います。

一、ことばが語られる前提

1、イスラエル人への前提と準備
●最初に十戒が与えられている状況を見てみよう。20章8節では、「雷と、いなずま、角笛の音と煙る山を目撃した」民はたじろぎ、遠く離れて立ち、「私たちは聞き従います」とモーセに言っている。そして、モーセは暗闇に近づいて主のことばを受けている。民は、絶対的な主の権現を目の当たりにし、恐れの気持ちを抱いて聞いている、これが直接的な様相である。私はこれを見て、キリストの再臨の際も、同様のことが全世界に起こり、人々は全てを捨てて戸外に飛び出し、その人類史上最高の主の権現に恐れるであろうと想像する。特に雷、稲妻に続く角笛の音はすさまじく高らかに鳴り響き、驚かすであろう。
●次に、聖書の十戒がイスラエル人に与えられるまでに主がなされたことを見よう。まず、ひとりの主を恐れる信仰者アブラハムを選ばれたとき、主は、「あなたの子孫は自分の国でない国で奴隷となり、四百年後約束の地に連れ戻される」とのことばを与えておられた。
●実際に、アブラハムの子孫ヤコブ一家は世界的な飢饉から逃れるために、不思議な導きでエジプトに寄留することとなり、出エジプト記1章からは、早速「奴隷生活」が始まる。そして400年、彼らは「主の約束のことば」を信じ、待望する。主に叫ぶ以外に道はなかったと言える。しかし、「主に叫び求める」事が出来ることは大変な幸いで、主のことばを受けていなければ、叫ぶことも思いつかない。誰に求めて良いかもわからない。「信仰は聞くことから始まる」のである。
●さらに、具体的に見ると、イスラエルの民は、モーセが登場してエジプト脱出をするが、その中で多くの奇跡を経験する。多くの自然現象の裁きの後、「長子の死」という劇的な経験をするが、その際、他の場合と同様、エジプトには裁きが下るが、イスラエルには裁きが通り過ぎた。人間も家畜も全てが死ぬが、イスラエル人の家には死が入らない。これは、彼らにとって大変な驚きであり、こうして主に従うという準備がなされていった。
●次にエジプトを出た後、「紅海の奇跡」が起こされ、この「主の劇的な介入」を通して、民は主のことばを受け入れる土台が出来たのである。
2、私たちへの前提(主のことばとして受け入れるために)
●次に、十戒と律法を、私たち全人類が受け入れることが出来る前提は何かと見ると、それは、次のいくつかの点である。
①一つは、最初に召命されたアブラハムが、4千年を経過して、現在キリスト、ユダヤ、イスラムという世界宗教の信仰の父となっているということである。
②次に、モーセに導かれたイスラエルは、後のダビデの時代に世界有数の統一国家として存在していたという事実である。(現代のイスラエル国旗はダビデの星のデザイン)
③更にいえば、現在の世界の国家の憲法の多くが、聖書の十戒や律法を土台に成立しており、日本の憲法も、約60年前に敗戦を機に成立しているが、「自由、平等、博愛、民主」などの基本理念は殆ど全て聖書の教えに沿っており、数千年の日本の歴史から生み出されたものではない。一例を挙げれば、明治以前の日本では週に一度の休日(安息)は与えられることはなく、休みといえば、お盆や正月、藪入りなどに限定されていたし、旧憲法の戦前においても勤労者の労働条件は過酷であった。現在は「休日は昔から決まっているもの」あるいは「労働運動によって手に入れた」と受け止める人が多いかもしれないが、こうして、3500年前の聖書によって書かれ、主のご命令として与えられたものである事を知るとき、他の戒めも同様に創造主から与えられたということを理解することが可能となる。
3、十の命令という形式
●ここで、少し触れておきたいのは、十戒は主ご自身の手で「石の板」に書かれ、モーセがそれを持ち帰って示したと言うことである。当初は、当然それは簡潔である。第一戒「私だけを神とせよ。」第二戒「偶像を拝むな」・・・のようなものだったと考えられる。
イスラエルの律法全体は断言法(必然法)と決疑法に分類され、断言法は例外を認めず、理由も付加されず、例外や論じることも許されない。後者の決疑法は、「もし・・・」「・・・のときは」で始まる。それは、早期に定められた原則に基づいて、後に下された「判例法」と呼ばれるものである。従って、十戒は断言法、必然法、律法は決疑法、判例法と呼ばれるものである。

二、神(創造主)と人との関係*2-11節)
1、第一戒:他の神があってはならない*2-3節)
●第一の戒めの前に、「前文として」「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」としてご自身を証ししておられることが大切である。このことばが、歴史的な事実を通して人間の側の責任を明示している。
 この宣言は、イスラエルにとっては文字通りであり、私たちにとっては、「罪の奴隷から解放されたもの」として受け取るべきである。それは、神は贖いのわざをなされるからこそ、命令される権利も持っているということであり、それも、過去の贖いだけでなく、永遠の贖い=救いもなされることを示しておられる。ただ、まだキリストをご存じでない人間にとっては、「ヤハウエ=ありてある方=創造主」としての理解が大切となる。永遠に存在し、それも自存しておられ、万物の根源である方、「最後の審判と救いをなされる方」であることを覚えなくてはいけない。
また、ヤハウエという名は、「生ける方、歴史において力強く行動される方」である。
●第一戒:この方が言われる。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
現代のような科学や情報が発達した世の中でも、天変地異を含む自然現象や病、老い、地球環境の崩壊や世界戦争など多くの不安がある。更に、一人一人には仕事や人間関係など生きていくだけで悩みは尽きず、占いなどが常に人の関心を呼んでいる。
○そこで、多くの者は「自分のための神―守り神」を探す。その神は出来れば多い方が安心する。古来、人は太陽や月、星から小動物に至るまで、数え切れない数のものを「神」として来た。
○また、スポーツ、芸術、仕事の成功=事業、あるいは歌手、タレントなどを自分の偶像=アイドルとして熱中し、人生の多くの時間をそれに注ぐことによって不安や問題解決を先延ばしにし、忘れることにつとめてきた。それも、形を変えた偶像礼拝である。どんなことであれ、像を礼拝するということと関係なく、主以外に大事なもの、先にするものがあるならば、それが偶像礼拝の罪である。
2、第二,三戒
●第二戒は、偶像礼拝が具体的な像(似姿)への礼拝となることの戒めである。上の天、下の地、地の下の水の中など、人類はバベルの塔前後から様々な神々の像を造りそれを拝んできた。シュメール文明、エジプト文明の中で既に溢れるばかりにそれらが輩出されてきた。エジプトでの蛙の裁き、アブの裁きなどはアブの神、かえるの神などの偶像への裁きでもあったのである。当時は、普通は木像、あるいは石像で、大抵は貴金属で覆われた。
●「ねたむ神」5)ねたむ神ということばは人格的な方であり、生ける方であることと関連する。ものを言わない偶像ではなく、私たちの行動も心も全てを見られ、人格的な反応を見せる方である。ねたみという訳であるが、英語ではjealousy=「ねたみ」ではなく、 zealous=「熱烈な」が良いと言われる。
私たちを熱烈に愛して下さり、罪によって滅ぶことに耐えられないという愛なる方である。
●「恵みを千代にまで施す」*5-6):
主を憎む者には報いが三代、四代にまで及ぼし、逆に命令を守る者には恵みを千代にまで施すとある。奴隷制度、領土拡張主義、戦争や環境破壊など、御旨に沿わない人類の行為が後代にまで影響が出ることなどは、この世界は主のものである事と関わっている。
 逆に千代に続く恵みは「無限に続く」という事を述べている。報いより恵みの大きい事に注目しなくてはならない。
3、第三戒「みだりに唱えてはならない」*7)
●この命令は、本来は「ヤハウエの名で偽りの誓いをしてはならない」という意味であったらしい。(レビ記9:12)唯一の生ける実体の方であるにもかかわらず、軽率に名を口にし、「主は生きておられる」などの慣用句を用いていながら、誓いを遂行しないならば、主が実際に存在するという事実までも疑わせてしまうからである。従って、私たちの祈りも礼拝の最初に一度呼ぶだけで、繰り返し呼ぶことは決してしないし、軽率に用いて誓うことは戒めなければならない。(「oh my god!」 と「Jezus!チクショー」)
4、第四戒「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」*7)
●肯定的な表現の最初である。冒頭に取り上げたが、安息日は、「私たちのために、主が与えて下さり」「仕事を休むとともに礼拝を捧げること」が本来の目的であった。(Ⅱ列王記4:23,アモス8:5)この命令を守らないことに罪の出発点がある。罪は、アダムがそうであったように、主の御声を避けて逃げることから始まる。

三、人と人との関係の命令(5-10戒)
1、第五戒「あなたの父と母を敬え」*12)
●これは、肯定形式の断定的な「約束を伴った」最初の命令である。この約束は人間社会においてよく効果を現している。社会や家庭環境の安定化を持たらす事は確実である。これは、祝福が約束されているから命令を守るという意味ではなく、結果として祝福されるだろうと保障している。私たちが主に対して言い表す愛の中身は、私たちが家族や仲間に対する愛の中身によって現されることとなる。私たちの信仰の実質が見られるのである。
2、第六戒「殺してはならない」*13)
●ここで使われているヘブル語「ラーツアハ」は、普通「個人的な敵を、暴力を持って殺すこと」を意味し、聖書中ではまれにしか使われていない。英語では「murder」
 律法では、故意の殺人と偶発的な殺人とを区別している。(出エ21:12-14)
「いのちは尊く、神(創造主)からの賜物である」ことが宣言されている。
3、第七戒「姦淫してはならない」*14)
●14節は、17節の戒めと関連している。妻は他人に属しているからである。
聖書では、明らかに「一夫一婦制」が創造主の意図である。(マタイ19:4-6)モーセ時代に離婚などが黙認されていたのは、人々の心が頑なだったからであると主イエスも言われている。
●イエス様によれば、「怒ることも、殺してはならないという禁令に触れる」のであり、姦淫も、単に行為だけでなく、「思いと動機」にも向けられている。つまり、姦淫の目で見れば、心の中で姦淫を犯したのであると主が言われている。
4、第八戒「盗んではならない」*15)
●私が子どもの頃は、家の鍵を掛けないという人が多かった。我が家でも、勝手口から入ってきて、黙って野菜などを置いて帰る人が多かった。それほど安全だったわけであるが、本当の共同体=地域社会はこうでないといけない。地域共同体の交わりを守るには、誰ひとり盗む者がないことが条件となる。昔の生活の厳しい農民社会(牧畜民も同じ)では、所有物を盗まれるのは、死に直結するほどの重大な犯罪であった。質に取った上着でも夕方に返さないと、貧しい人は夜には凍え死ぬのである。
5、第九戒「偽りの証言をしてはならない」*16)
●素朴な荒野の共同体社会では、ほぼ全ての犯罪が死罪に価するものであったといえるから、「偽りの証言」によって冤罪を掛けられればそれは殺人、死罪に等しい。他の罪は、自分の注意によって防げるが、偽証は防ぎようがない。互いの中に怒り、敵意、恨みや復讐心などがあって偽証がなされることは、すさまじい対立、疑心暗鬼を呼び、共同体は存立できない。この戒めは、後に一般化され、「中傷、告げ口」「陰口」(レビ記19:16)に対する禁令ともなった。
6、第十戒「欲しがってはならない」*17)
●欲しがるはヘブル語で「ハーマド」欲するは、それ自体はあいまいなことばであるが、「他人のものを欲しがる」時に悪となる。時々、十戒の中で、この箇所だけが、行為というよりも、「精神のあり方」を禁じていると言われるが、「欲する」ことは、手に入れようと追求することと殆ど同義語なので、「神が与えたものに満足しないこと(貪欲)=神の愛に対する信仰」が欠如していることを示している。
7、最後に・・・「全ての人は罪人」*詩編53:1-3.ローマ3:23)
●十戒の最後に質問したい。
聖書は、義なる人は一人もいない、全ての人は罪を犯したとあるが、十戒を学んだとき、主の御心、聖さの基準のなんと高いことかと思わない人はいないはずである。あなたはどうか?全ての戒めを、一度も破ったことがないと言える人がいるだろうか。
●だから、聖書は次のようにキリストの救いの必要を教えている。*ローマ3:23-24)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」●祈り」大寺俊紀

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2009年7月 4日 (土)

2009年7月第1週のメッセージ

「もう罪を犯してはなりません」―罪と信仰―
●ヨハネ伝5章1-18節(P.182)
はじめに: 今日の聖書箇所は当初二か所で、新約はヨハネ、旧約は出エジプト記15章でしたが、新約のヨハネだけに絞って見ることに変更しました。ここでは、イエス様は癒しを与えた男性に、「もう罪を犯してはなりません」という、他に例を見ない厳しい言葉を語っておられます。では、この男に言われた「罪」とは何でしょうか?又、この箇所は、マルコ2章1-12節の中風の人の癒し、ヨハネ9章1-12節の生まれつきの盲人の癒しとの関連が深く、比較して考えたいと思い、礼拝では「招きのことば」に取り入れています。

一、何故、ベテスダの池か?
1、池のそばに多くの者が伏せっている不思議*1-6)
●2節をみると、羊の門の近く、ベデスダと呼ばれる池があり、五つの回廊もあったというが、その池のそばには大勢の病人、盲人、足の萎えた人、やせ衰えた者が伏せっていたとあるから、その池は「ユダヤの神殿からの癒し」が期待されて多くの人が集まる所であった。現在でも、いくつかの癒しの聖地と呼ばれる所があり、泉がある個所が多い。
5節では、イエス様は38年病気にかかっている人を見て彼に声をかけておられるが、何故イエス様は、大勢の中からこの男に声をかけられたのだろうか?おそらく38年間という長い年月を経ていることが風貌などに顕著に出ていて憐れみの気持ちを起こさせたものと想像できる。
2、「水がかき回される」とはどういうことでしょうか?*7,8)
●(質問です)7節では、「よくなりたいか」の質問に対して。男は、「はい。良くなりたいです。助けて下さい。」とは答えていません。その答えは良かったでしょうか?

●男は、「はい。良くなりたいです。助けて下さい。」と答える代りに、「主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えます。さらに、イエス様はその答えを聞いて8節のように言われます。
(二つの目の質問です)「水がかき回されるとき」というのはどういうことだと思いますか?誰が水をかき回すのですか?また、何故そのようなことが、その場所で起きたと思いますか?

(三つの目の質問)「行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」という答えはイエス様を十分納得させる答えだったでしょうか?それとも不十分だったでしょうか?自分が遅くていつも間に合わないという答えは、どのような状況を示していますか?


(四つ目の質問)招きの言葉で取り上げたマルコ2章3-5節(P.66)では中風の人を4人の人が担ぎ、近づくことができなかったので屋根をはがし、穴をあけて、つり下ろすということまでしています。この場合と比較してどのようなことが言えますか?


3、すぐに癒された男*9)
●ヨハネ5章では主が「起きて、床を取り上げて歩きなさい」との言葉を出されると、すぐにその人は癒されて、床を取り上げて歩き出した」とあり、聖書は、このようなことは驚くには当たらない、イエス様は創造主ご自身であるから、全てをご支配されていて、「死も、病も」解決される方だと教えている。
●使途の働きをみると、弟子たちですら同じ力を与えられ、死人を生き返らせ、病人を癒されている。
●ユダヤ人たちは癒された日が安息日であったから、「律法違反」ということで問題にし、癒された本人に対して「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」と言っている。
(五つ目の質問です)10節の「安息日は床を取り上げてはいけない」とのユダヤ人の言葉は聖書の正しい解釈ですか?また、「床を取り上げてはいけない」というのはこの男にとってどういうことになりますか?


●(六つ目の質問です)イエス様は、安息日の癒しに対して、ユダヤ人から何度も抗議を受け、そのつど見事に反論されています。イエス様は何と言って反論されたでしょうか?


●七つ目の質問ですが、旧約聖書の律法には、本当に「何もしてもいけない」と書かれていますか?出エジプト記20章8-10節(P.130)を見てどう思いますか?すべてのことをしてはいけないと書かれていますか?また、そもそも安息日の目的は何ですか?

二、この男の「罪」とは何か?*14)
1、それが誰であるか知らなかった*13)
●「床を取り上げて歩けと言った人はだれだ」というユダヤ人の質問に対して、癒された男は答えることができなかった。癒された男は、それが誰であるかを知らなかったからであると13節にあり、さらに、13節には、「人が大勢そこにいる間に、イエスは立ち去られたからである」とある。しかし、その後、イエス様は宮の中で男を見つけて14節のように言われている。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と。
●13節でイエス様が立ち去られたこと、それが、男がイエス様の名を知ることができなかった理由だとの説明になっているが、本当にその説明だけで十分だろうかという疑問が残る。最初の時、あるいは直後に聞く機会がなかったとは言い切れない。男がそれをしなかったのはなぜだろうか?

2、この男の「罪」とは*14)
●この聖書個所、この男に対してのイエス様の行動は、ほかの男女の癒しの場合と大きく異なる点が多い。いくつかを比較してみたい。
①長血の女場合:(ルカ8章43-48節P.128)「着物の房にでも触れれば癒されると信じていて」、こっそり後ろから着物の房を触った女に対して、触った理由を聞いている。そして、理由を聞いて、「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです」と彼女の信仰を褒めている。
②盲目のバルテマイは:(マルコ10章46-52P.88)イエス様が来られたこと聞き、制止を振り切って大声で「ダビデの子イエス様!」と叫んでいる。「何をしてほしいのか」というイエス様の質問に対して「先生、目が見えるようになることです」と答え、「あなたの信仰があなたを救ったのです」との言葉とともに、すぐに癒されている。
●以上2つの例と比較して考えてみて、イエス様がこの男に言われた「罪」という言葉を考えてほしい。
(八つ目の質問ですが)この男の罪とは何だったでしょうか?二つ挙げてください。
1)

2)

3、「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」とのことば*14節)
●14節の二つの言葉は大変重大な示唆を含む言葉である。ひとつは今見た「罪」であり、もう一つは、「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」とのことばである。起こるかもしれないではなく、起こるからと断定されていることに注目しないといけない。
(九つ目の質問ですが):14節後半の言葉(注意)は私たちに何を教えていますか?


●ここで、最近起こった二つの対照的なことをお話ししたい。ひとつは、大人のアトリエの生徒のご近所の方の話で、生徒の方が言われるには、先週近所の親しい方がなくなった。その方は65才(?)まで働いて、3カ月前に退職し、すべてに元気で何も問題がないと思われていた。しかし、先週、車でたばこを買いに出かけ、タバコ屋の前で車を止め、そのまま心筋梗塞を起こして急死されたという。私は、その人を責める気持ちは一切ないが、「あなたの若い間にあなたの創造主を覚えよ」というみことばを思い出す。人の一生は誰にもわからない。主に救いを求めていなければいけない。
 もう一人の方は、クリスチャンの女性の母親である。この方も、全く同じ心筋梗塞を起こした。梗塞を起こすと10分以内に手当てをしないと命が危ないと聞くが、この方は、クリスチャンの娘が梗塞で倒れた直後に家を訪れたので助かった。倒れたその日に、ちょうど食事の約束をしていたと聞く。命を取り留めた母親は、「奇跡的に助かった」と感激し、牧師の私がお見舞いに行った際、部屋に入るなり「先生、信じます!」との言葉を出された。私たちは、クリスチャン女性と教会の祈りが聞かれたと信じ、感謝している。

三、何故、この男を癒されたのか?

1、ある生まれつき盲目の男との違い*ヨハネ9章(P.195)
●最初にふれたとおり、5章の38年重い病だった男の癒しの場合は、「もう罪を犯してはなりません」と言われており、ほかの聖書個所と比べて特異である。特にこの言葉は9章の生まれつき盲目の男への言葉と対照的である。
●ヨハネ9章1-3節(P.195)で、「彼が盲目になったのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか、それとも、彼の両親の罪ですか」の問いに対して、「この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」との主の答えがあった。
この場合:イエス様は、盲目の人には罪が全くないということを言われたのではなく、「神のわざ=神の栄光」が現れるためだと、後者を強調されている。当時のユダヤ人社会では病気や障害は、本人や親の罪と受け取ることが多く、「健康で成功している者は罪がないから」であるとも考えた。これは、現代日本人にも多くみられる。
 さらに、9章では、この盲人に、5章の男のような「的外れな」言動の記述が一切ない。イエス様は、彼自身の罪には一切触れずに、憐れみを持って癒しをされたが、このことによって神のわざ=栄光が現れたわけである。
●しかし、5章の男の場合、38年間もそこにいたということ、助けを求めるなどの努力がみられなかったこと、ほかのせいにしていたこと、イエス様のことを知っていなかったこと、積極的に知ろうともしなかったこと、これらのことが問題とされたわけである。
2、癒された男も、行ってイエスの名を告げた*15)
●イエス様は、「罪=不信仰」のある男に戒めを与えられたが、にもかかわらず、名前も呼んでいないこの男を癒され、のちにもう一度現われてご自身を示された。
おうして、遅ればせながら、15節で男はユダヤ人のところに行って、自分を救ったのはイエス様だと告げている。こうして、彼もキリストを告げ知らせるということができたわけであるが、それは、主イエスに対する迫害を起こしたと16節にある。
 では、この15節の行為は良くない行為だったのだろうか?
3、神の栄光=迫害と証しのため
●17,18節では、ユダヤ人たちの迫害は激しくなり、ますますイエスを殺そうとするようになったとあるが、イエス様ご自身も、いっそう「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」とあり、5章の男の癒しも、9章の盲目の音の癒しと同様、「神のわざが現れ、神の栄光があらわされる」という目的のためになさったということを教えている。
●祈り:」大寺俊紀

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