2009年7月26日のメッセージ
「知恵と霊を与えられる」
●聖書箇所:出エジプト記36章1節
「一、「聖所建設」の奉仕をするということ
1、「永遠」に関わる重大なこと
●36章1節は聖所(幕屋、神殿)の奉仕のすべての仕事をする者の資格、条件を教えている。36-40章は、具体的な幕屋の建設が詳細にわたって書かれているが、「天国の影」としての幕屋建設の詳細ではなく、真の天国への救いとその為の働きを学びたい。
「聖所造りに関わる、奉仕をする」ということばだけを文字通りに受け取ると、泉南市内にも多くの例が見られることから、多くの人にとっては、「それは、宗教家の仕事、あるいは一部の教会員や役員がすること」と捉えて、自分には関係がないと思うに違いない。
●しかし、聖所=幕屋、神殿造りに加わるということの、私たちにとっての真の意味は、単に建築に関わることなく、人間にとって最も重大な「魂の永遠の救い」に関わることである。先週ヘブル書9章で学んだように、「幕屋はのちの神殿の型」、さらに、「神殿は本物の天の影」であり、キリストが手で造られたものでない本物の神殿=天に入られたのであるから、キリストが、信じる私たちを完全にお救いになられ、天に上げて下さるのである。
また、「教会とは永遠の天につながるために地上に置かれている箱船のようなもの」であるだけでなく、クリスチャン一人一人が、キリストを信じる信仰によって聖霊が宿り、一人一人が「神殿」とされ、「キリストのからだ」とされるのである。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」(Ⅰコリント3:16)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」(同6:19)
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)
●従って、「聖所造りに関わる」ということは、次のような二つの意味がある。
①人々が罪を悔い改めて、救われクリスチャンとされるための働きをする。
②救われた者が、共に学び、礼拝、奉仕をし、「キリストのからだとしての教会」を建て上げていく。 (建物としての会堂を建てることもその一部である。)
2、聖所建設は、キリストのからだ(教会)を建て上げること
●36章からの聖所建設を今日に当てはめると、ローマ書12章4-8節の、次の賜物の記述に当てはまる。パウロは、この記述の前にまず次のように書いている。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(11章1節)
次に、12章4-8節(P.309)では、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」とある。
●Ⅰコリント12章4-10節にも「御霊の賜物」が教えられ、「知恵」「知識」「信仰」「いやしの賜物」「奇跡を行う力」「預言」「霊を見分ける力」「異言」などの賜物が教えられ、すべての賜物や奉仕は、みな同じ主から来るといパウロは教えています。(P.335)
●モーセがイスラエルに教えた幕屋、聖所建設は、こうして、今日「キリストのからだ=教会を建て上げること」として教えられ、作業の一つ一つは「からだの器官」のように、助けあい、支え合い、それぞれがなくてはならない働きとして主に受け入れられるように
しなさいと教えられている。
二、感動する者、心から進んでする者*35:21)
1、世の悲しみ、キリストにある悲しみ
●36章は、聖所の奉仕のすべての仕事を行う者は、「知恵と英知」を主に与えられなければならない、とある。更に見ると、35章では、「感動した者」と「心から進んでする者」21節)、「心に知恵のある女」25節)、「感動して、知恵を用いたいと思った女」26節)とある。
30節、34節では「オホリアブ」と「ベツアルエル」が召し出され、具体的に彫刻や設計の仕事などにおいての「神の霊」を満たされている。
●絶対的に確かなこと、必要なことは、「キリストとの感動的な出会い」であろう。
「感動的な出会い」というと喜びだけを想像するかもしれないが、常に喜びが先に立つとは限らない。多くの人が経験するように、まず人間の罪、自分の罪や弱さに打ちひしがれることも多い。しかし、それらの「悲しみ、苦しみ」がキリストとの出会いを経験することによって、喜びに変えられるのである。それが「感動」でなる。
*「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10(P.353)
●キリストとの出会いとは、「自分の罪が赦され、救われなければいけない」との自覚から始まる。
○イスラエルの王ダビデは詩編23篇で次のように語っている。(P.926)
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。1」主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。2)主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。3)たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。4)」
ご存じの通り、ダビデは殺人と姦淫の罪を犯しましたが、主からの使いナタンが送られ、激しく叱責され、悔い改めました。彼は、主からむちを受けましたが、たましいを生き返らされ、義の道に導かれました。主がともにおられるという経験をしたので、もはや恐れることは何もないと言う。ダビデは感動的な出会いを経験したわけである。
○先月の野田修司さんの場合は、弟さんは少年院の檻の中、修司さん自身も、薬物依存のために精神病院の独居房の中にいて、自分の罪に打ちひしがれたときに、「キリストが自分のために身代わりに死んで下さった」という「贖い」に感動をされた。彼らのケースはまことにわかりやすいと言えるが、それでも、野田兄弟が聖書に感動し、キリストの救いに感動した「たましいの純粋さ」は大変優れていると言えよう。
●私たちの場合はというと、普通は、「自分はまじめで特別罪を犯していない」という先入観に頼り、求めようとしない。確かに、今日の日本では90%以上(99%かもしれない)の人は、警察のやっかいになったことがないかもしれない。特別人を苦しめる、ひどい目に遭わすということもなかったかもしれない。しかし、先週学んだ十戒にあるとおり、創造主の聖さの基準は高い。「常に主だけを礼拝し、偶像を礼拝したことがない、休日はすべて礼拝を守ってきた。他人を怒ったり、欲しがったりしたこともない・・・」このような人は一人もいないはずである。また、戦争、動乱などの中では、一夜にして「百鬼夜行」「群盗山に満つ」とばかりに、群衆が略奪に走るという光景をテレビニュースでしばしば目にしている。(最近の中国に多い)
●更に、主イエスは、マルコ7:21-23(P.79)で、「人の内側から出てくるものが人を汚すのです」として、「悪い考え」「不品行」「盗み」「殺人」「姦淫」「貪欲」「よこしま」「欺き」「好色」「ねたみ」「そしり」「高ぶり」「愚かさ」などが人の内側出てくる罪であり、すべての人には罪があると言われている。実際の行為だけでなく、「心の中の思い」が罪として人を汚しているのである。
●さらにいえば、「老、病、死」はその罪の結果である。すべての人に死があるのは、すべての人に罪がある結果だと聖書は教える。「老、病、死」を認めない人はいない。しかし、そのことを「当たり前の自然現象」として疑わないこと、死の解決がないのだろうかと期待しないこと、それが人を救いから遠ざける不信仰の芽である。
確かに80歳、90歳生きた人で、色々病気を抱えている人は、その苦しみゆえに「いつ死んでも良い」と口にするかもしれないし、祖父母が大往生した場合、子どもたちはごく自然に死を受け入れるであろう。昔のことばに「被馬鞭すいを恐れず」というのがあり、疲れた馬に鞭を打っても動かないように、人も追い詰められると何ものも恐れなくなると言われる。しかし、自分自身の老いや病、死を予感して不安を感じない人はあるまい。愛する人や家族が、突如大病や事故に見舞われて平気な人もいるまい。ましてや「非業の死、不遇の死」「重病」「自殺」などは、人を激しく精神的に追い詰める。親や兄弟が自殺や離婚に追い込まれたりしても平気である方がおかしいのである。また、これらのことが自分に降りかかっても、あくまでも人間的な動きだけで解決することしか考えないとすると、それは救いの道、「主により頼め」という御ことばからは遠い。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」という恵みを得ることはない。
●ここで、分かれ目は先ほどのⅡコリント7:10の「世の悲しみとキリストにある悲しみ」の差である。人はキリストに求めなければ死に至るだけであるが、キリストに求めれば希望が与えられる、ここに決定的な違いがある。
2、キリストに感動する
●あなたは自分の弱さや小ささ、愚かさなどに絶望したことがないだろうか。中には、現在天にも昇るように、すべてが順調という人もいるかもしれない。最近、ある男性に出会ったが、彼は50歳手前という若さで大会社の筆頭役員になり、次期社長候補らしい。しかし、皮肉なことに膝の靭帯を激しく痛めており、自分ひとりで椅子から立つこともできなかった。「万事塞翁が馬=ばんじ、さいおうがうま=人の禍福は量りがたい、人間何が起こるかわからない」の例かもしれないが、求められることがなければ、牧師である私でも何も助言できない。人間的な栄光や努力だけに頼るのではなく、へりくだって主を求めてほしいと、ただ祈るだけである。
●聖書には、救いを求めてキリストのそばにきた人が多く紹介されている。ルカ7章36-50節(P.124)を開くと「罪深い女」と呼ばれたある女(遊女)は、人々のさげすみの目を受けながらもキリストのそばに来て、香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった。男たちは彼女に白い目を向け、さらに彼女の行為を受け入れるキリストに疑問を抱いた。しかし、主は、彼女の行為を褒め、彼女のしたことは後の世にまで伝えられるであろうと言われた。彼女は非難ではなく、赦しと称賛を受けたのである。それは、素晴らしい感動となった。
●聖書には、キリストに救いを求めた多くの人が紹介されている。長血の女(婦人病)はイエス様の着物のふさにさわって癒された。会堂管理者ヤイロは娘が死の床にあったが、主イエスのことばだけを受けて死の床からのよみがえりをさせていただいた。生まれつき盲目の男たちも大勢癒され目が見えるようにされた。すべてが感動的な主との出会いであった。
三、御霊に満たされる恵み
1、御霊を求める
●ヨハネ3章のニコデモというユダヤ人の指導者の場合は「たましいの救い」という問題について聞きたいと、主イエスを訪ねてきた。(P.176)
イエス様は、ニコデモに対して「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えられた。ニコデモはこの答えに当惑したが、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と、御霊=聖霊についてご説明していただいた。水は「悔い改め」を意味し、「悔い改めた者には聖霊が送られ聖められる」という恵みを教えていただいたのである。
イエス様は、更に続けてご自身の十字架の死によって信じる者が永遠の命を持つことも14-15節で説明されたが、自分の罪のためにイエス様が身代わりに死んで下さった、この事を信じる者に救いと保障としての聖霊が送られる、これが、聖書の福音(良き知らせ)である。
2、聖霊はすべてを教え、父の御心をなす
●ニコデモに聖霊を教えられた際、ひとは「御霊によって生まれなければならない」と話されたが、罪と十字架の赦しを信じるとき、父なる神から、キリストの御霊=聖霊が送られ、人の魂は新生させられ、主にある新しい歩みをさせて下さるのである。しかし、人は、風がどこから来てどこに吹くかを知らないように、御霊によって生まれ変わるのも、人間の思いではなく主の思いのままになされる。主は、人の心を見られ、救われる信仰があるかどうかを判断されて救いをなされるのであるから、すべて人の思いを超えている。人間とすれば、主を恐れ、へりくだって求めること、これがすべてである。
*箴言1:7(P.1057)「主を恐れることは知恵の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」
●イエス様は、弟子達に特に聖霊を教えられていた。それは、「助け主」であり、父の御心をなされる。私たちのうちに住んで下さって知恵、知識のすべてを教え、ことをなさせて下さるのである。
*ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
*ヨハネ14:26(P.211)「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は,あなた方にすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」
●また、聖霊は、私たちをきよめて、罪から離れ、御霊の思いに導いて下さり、義の実を与えて下さるのである。*ガラテヤ5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。・・・」
●へりくだって,主を恐れよう。知恵と訓戒を求め聖霊の注ぎを受けよう。
●祈り
」

