2009年6月第3週のメッセージ
「主がともにおられる恵み」―ヤハウエなる神、主とはどのような方か―
●聖書箇所:出エジプト記1章1-22節(P.96)
「はじめに:今日は、出エジプト記の1章で、これまで延々と語り続けられたヤコブ=イスラエルの物語が舞台をエジプトに移し、更に映画を見るような展開をします。ご存じの通り、聖書は物語のおもしろさに目を奪われることなく、本質的な真理に注目しなければなりません。又、単に歴史的な教訓ではなく、人類に「主とはどのような方か」を語りかけておられます。そこで、最初に、粗筋を整理し、次に主の語りかけを聞きたいと思います。
(略)
一、イスラエル民族のエジプト行きとモーセの誕生
1、アブラハムからヤコブとヨセフ
●モーセがイスラエル民族をエジプトから解放し、荒野で主からのことば=十戒や律法を与えた。そして、後に彼らは今のイスラエルの地に入って定住し、王国を築いた。その主が供えられたイスラエルの地に救い主キリストが来られたから、全てが主の救いのご計画であることがわかる。
2、奴隷からの解放(出エジプト)は最初からの預言
●アブラハムからヨセフまでの4世代のあと、400年が経過し、モーセが登場し、民族を救出する使命が与えられるが、その計画は最初のアブラハムの時に告げられていた。
*創世記15章13~16節(P.21)
「そこで、アブラハムに仰せがあった。『あなたはこのことをよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間苦しめられよう。・・・そして、四代目の者たちが、ここに戻ってくる。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。』」
●寄留者となり、そして奴隷となって四百年苦しむこと、不思議な主のご計画である。その理由は何か?考えられるのは次のことである。
①ヤコブの当時に7年間の世界的な飢饉があり、エジプトに逃れていなければ一族は生き延びることが出来ない。これは、ヨセフが兄たちに語っている。
②四百年という長い年月、奴隷状態におかれて、民族全体として救出を切望する。その飢え乾きの後に救いが与えられ、「選ばれ、訓練される民」であることを強く自覚するため。
○1については、確かにヨセフも語っているが、②の「奴隷からの解放を通しての民族の選び」というのが中心であり、その為に7年間の飢饉を起こされたと見る方が自然である。主の御力から言えば、飢饉を防ぐことは簡単なことであるが、自らを示すために民族をエジプトに導き、後に解放するためにレールを敷かれたと言える。
●四代目の者が「ここに」戻ってくること、「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」と言われていることも不思議である。主のご計画は、唯単にイスラエル民族の選びと訓練のためだけでなく、彼らが約束の地=イスラエルに戻るときには、「その地の罪、咎を裁く」という任務も与えておられる。つまり、イスラエルが奴隷から解放されてカナンの地に戻ることは、「人類の罪を主が裁かれる=救い主は裁き主でもあると言うことを示す目的もあるということである。
3、モーセの任務
●モーセ:彼の任務は重く、大きい。一つは直接エジプトのパロに敵対して民族の解放を告げ、民族を説得して連れ出すことであり、脱出後は40年間も荒野の中で民を養いながら、律法や十戒を教え導くことであった。その任務はとてつもなく重く、聖書の中でも彼ほど重大な責任を負わされた者はないし、聖書以外でも比類する者がない。
更に、モーセは創世記を始め多くの重大な聖書(創世記、出エジプト記、ヨシュア記、レビ記、申命記のモーセ5書)を記述している。(ヨブ記もミデヤン時代のモーセの著述との説がある)
4、モーセの出生と庇護に見る主の導き
●ここで、今日の聖書箇所を見ると、ヤコブ一家は70人でエジプトに寄留し、命を守られたが、ヨセフはじめその時代の人はみな死んだ。イスラエルの人たちは多産で、おびただしく増え、強くなり、その地は彼らで満ちたとある。その後、ヨセフのことを知らないパロが起こり、イスラエル人を恐れて苦役を課すようになり、民族全体が奴隷とされた。
●しかし、苦しめれば苦しめるほど、ますますイスラエルの民が増えていくので、ついにパロはイスラエル人の男子を生かしておかずにナイル川に投げ込めという命令を出した。
●2章では、そのような困難な状況下にモーセは誕生し、見つかれば殺されるため、やむなく生まれてすぐ籠に入れて流されるが、モーセはエジプトの王女に拾われて王子として育てられ、エジプト最高の教育を受けるという幸運を受ける。同時に、「乳母」としてモーセの実母が選ばれ、実母を通してイスラエル人の教育も受けることが出来た。そのことが後の聖書記者としての素地となる。
二、聖書と歴史に見る主
1、日本人の宗教観と主の臨在
●NHKには子どもラジオ相談という番組があり、皆さんも何度か聞かれたことがあると思う。ある時、仏教の僧侶が相談員となった際に、「神様は人間が造ったのですか。それとも、神様が人間を造ったのですか。」という質問があり、回答者の僧侶の方は、いろいろ話した後、最終的に「人間が神様を造った=考え出した」と答えられたそうである。
●他の大人向けのラジオ番組でも、パーソナリティーやゲストの方は、年末年始や恵比寿神社祭り、彼岸、お盆などの際には日本人の宗教に関して言及することが多いが、そこには必ず日本人のコンセンサスというものがあり、そこをはみ出すことがない。(私のように)その範囲をはみ出して自分は唯一の神を信じるという発言をする人は番組に出してもらえない。彼らの発言は次のようなものである。
イ)お参りは、しないと何か不安になるから、あるいは、皆が行くから自分も行く。しないよりする方がよいという程度の気持ちであることを告白している。
ロ)何万、何十万という群衆の中にいて、自分がお参りをし、祈ったことやお賽銭を入れたことが神様に見ていただいているのか、聞いていただいているのかの確信がない。
2、聖書(創世記、出エジプト記)が示す主
●それに対して、聖書はどう言っているか。次に、聖書、特に創世記、出エジプト記が示す神、主を神学的に整理してみたい。
①歴史を支配される主:主は歴史を動かされている。そのお力を、気まぐれではなく、たとえ、現在の状態がどうなろうとも、最終的に子どもたちが幸福になるようにされる。
*出エジプト記1:12では、イスラエル人を抑圧しようとした施策そのものが、かえって更にイスラエル人たちの人口を増やしている。又、22節で出された男子をナイル河に投げ込めと言う命令によって、モーセはエジプトの王女によって命を保ち、養子とされていく。このように、すべての時代において主が歴史に介入されている。
②神、主は「ヤハウエ=YHWH」である:出エジプト記3章13-15で、主がご自身をヤハウエであると宣言されている事については、諸説があるが、「御名」を持っておられるということは完全に人格的(正確には神格)なお方であることを示す。ヘブル人にとっての「名前」とは「性格」の省略表現で、「名」を知ることは「ありのまま」を知ること。
又、ヤハウエという御名の意味は「わたしはある」ということで、それには、ご自身が、「誰にも依存せず、自存する」という意味、即ち創造者ご自身という意味であるが、同時に、12節にあるとおり、その方が、「わたしはあなたとともにいる」3:12)とも言われる方である。これは私たちにとって最大の拠り所となる。
③主は聖であられる神:出エジプト3章5節で、モーセが呼びかけに応じて近づいたとき、燃える芝の中から「モーセ、モーセ」と仰せになった主は、「あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言われている。他の偶像の神々(での礼拝)とヤハウエなる神の特別な違いは「道徳的な性質」であると言われる。偶像礼拝の神殿では常に「神殿娼婦=巫女」がいて、性的な役割を果たしていたが(日本も同じ)、娘や妻などの一般の女性にも年に一度強制的にその義務を果たさせたというものも多い。しかし、ヤハウエ様は、常に道徳的であり、人類に道徳的な生き方を求められた。
④神は思い起こされる方:2章23-24節をみると、イスラエルは長い間奴隷として苦しみ、主に叫んだとき、その叫びは神に届き、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」とある。(P.98)
勿論、これは、主は忘れてしまうことがあるという意味ではなく、「主は不変である」ということを擬人的に表現している。(擬人説、あるいは、神人同感同情説」という。
同時に、これは、人間に対して、神が契約に従ってご自分の民のために行われたことを「思い起こせ=主に祈れ」と呼びかけておられる。彼らの叫びがあったという表現がそのことを示唆している。
⑤救いにおいて働かれる神:主は生きておられ、行動を起こされる方であるが、とりわけ、救いのために働かれる方である。これが、私たちにとっての最大の恵みである。
*出エ3:8「わたしが下ってきたのは、救い出し・・・」
イエス・キリストも同様に私たちの救いのために下ってこられた。
罪に支配され虐げられた無力な者を救出するのは、創造主なる神のご性質そのものである。
●神が、無力な者を救いだし、世話をしてくださることは、その恵みを受けた者(イスラエル)も、同様の人を世話するということになる。出エジプト22:21-22節では、在留異国人、みなしご、やもめらに対して、彼らを救う者とならなければならない、そうすることが、真に主を知るということであり、神がどのような方かを知ること、その知識を行動によって示すことであると導かれている。
⑥裁きにおいても働かれる神:
●神が救いの神であり、赦しの神であるなら裁くのは矛盾するという者がいるかもしれないが、怒りやさばきがあることは罪に対する不変の態度である。「神を憎む者」にもたらされる裁きは愛、救いと同じくらい確実なのである。
●普通、神が怒られるのは、神の敵となってかたくなに反抗するからであるが、神のしもべの場合は、「不忠実」のときである。ホセア、エレミヤ、エゼキエルらは、不忠実を「結婚の絆ということばで表現し、神に対する罪は「姦淫」や「不貞」であると述べている。また、主が怒られるのは、人格的な関係が侵害されたときである。出エジプト以来、神の民の「ヤハウエへの畏れ」とは、神に服従して生活することと同義語になった。
●しかし、主は罰することではなく、救うことを最大の喜びとされる。
⑦怒りをそらしたもう神:
●主が怒りをそらされる(回避される)のは、「悔い改め」や「とりなしの祈り」また、出エジプト記やレビ記では「罪のためのいけにえ」による。出エジプト記32章の「金の子牛」の事件の後、モーセは見事なとりなしの祈りをするが、その中で、彼は、「自分も民衆と同じ裁きを受ける覚悟がある」と言う。
さらに、モーセは、異教の祈祷師のように、「魔術的な祈り」あるいは「激しく、長く祈りさえすれば効果がある」というものではなく、「過去になされた救いのわざと約束に基づいて訴えている。ヤハウエなる神は、怒りやさばきを喜ばれる方でなく、憐れみを喜ばれる方だからである。
*出エ34:6-7(P.157)「主はあわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す神・・・」
⑧語りたもう神:
*出エジプト記3章は冒頭からモーセに対して主が語りかけておられる。この燃える芝の場面のモーセの召命は、その後の預言者すべてが受けた召しの原型を示している。この後の預言者が「主はこう仰せられる」というときは(アモス1:3など)、モーセと同様の真理を主張している。それは、抽象的な原則や教理にそっていっているのではなく、主が私に語られたとの具体的な体験に基づいて語っている。
これは、旧約の預言者だけではなく、その後の教会指導者、牧師、多くの信徒にも語りかけ、ご自身が語りたもう方であることを示してきたが、主は語りたもう方である故に、人格(神格)やご自身の性質を示される方である。また、語られる言葉がことごとく実現してきたが故に、語りかけは非常に確かなものであり、完全な主権を持っておられる。
●さらに、語りかける主のご性質を完全に定義し、その定義を永遠不変のものとしたのは、肉体となられた神の言葉=イエス・キリストの到来である。主は、御子キリストを通して、ご自身を最も正確に語りかけてくださったのである。
⑩超越的なお方:
●主は、人間や被造物を超越された力ある存在の方であり、死すべき人間は、その方を十分体験することはできない。
*出エジプト33:20「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
●この方が、歴史の中においてそれを支配され、ご自身の目的を達せられる。それも、千年あるいは数千年前から予言して、実現するということを通してその超越性を明らかにされる。イスラエルの脱出も、アブラハムに対して少なくとも500年前から与えていた預言であった。
⑪ご自分の民に中に住まれる方:
●主は光の中に住まわれ、人は主を見て、なお生きることができないほどであるが、同時に「ともにいて、語りかけ、働きかけられる方」ある時は、先に出て備えておられる方でもある。出エジプト記3章のモーセへの言葉で、12節には「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」と言われていることが、私たちへの最大の励ましでもある。
●野田修二伝道師の証を火曜日と水曜日に聞かせて戴いたが、子ども時代の家庭環境、そして、弟さんの暴走、本人の挫折と罪、兄さんがクリスチャンの女性と結婚されたこと…次々と起こったことは、すべて「生まれる前から母の胎内で選んでおられた」という言葉の真実性を確信させる。また、野田師本人だけでなく、家族全員を愛して備え、導かれていたこと、言い換えればともに住み、ともに歩んでくださったことを教えておられる。なんという素晴らしい愛であろうか。
3、私たちも経験する、「共におられる主」
●私たちも、少なからず「主がともにいてくださっている」ことを経験している。封建的な人間社会の中で、あるいは就職や受験などの課題の中でも、主が私たちを守り、先に備えてくださって御心をなされてきたことを経験している。聖書を通して、また、一人ひとりの心に語りかけ、救いのために備えて下さっている、このことをさらに確信して主を褒めたたえていきたいものである。●祈り」大寺俊紀
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