2009年5月第2週のメッセージ
「洪水の後」-人類の始まりと歴史ー~創世記シリーズ②
●聖書箇所:創世記9章18-29節
「はじめに:今週は、創世記シリーズの二回目で洪水後の、主が「もはや大洪水で地を滅ぼすことはしない」という契約を宣言する箇所と、ノアの子どもたちのことが書かれている個所です。前回、2章の説教で、人の創造が書かれていた個所を省略していましたので、アダムの創造、イヴの創造から始めて、人間の歴史の始まりを整理して考えたいと思います。
一、ひとの創造
1、「われわれのかたち」1章26節)
●最初に、1章26節を見ましょう。光、水、陸地、植物、太陽と月、魚、鳥までが5日目までの創造で、地上の生き物=動物たちとひとの創造が6日目です。この1章の記述は今回詳しく話しませんが、1,2か所だけ注意して見ますと、まず、最初に「光」があり、4日目に「太陽、月、星」があるのは理解できない人が多いようです。15年前に見たある書では、「1日目の「光」は弱い光で、4日目に、現在のような核融合の強い光を出す太陽になったのだろう」とありました。しかし、最近では、1日目の光は、イエス様が光られたのだろうとの解釈が中心です。その理由は、1日目には地球の自転がこれから始まるときですから、自転によってもたらされる地場(バリヤ)が出来ていませんし、二日目にできる大空の上の水もありませんから、太陽の有害光線が地上に降り注ぐのは危険で、生命が存在できないからです。それで、太陽などは、それらのバリヤが出来た後の4日目に創造されたとなります。
では、1章3節にある「1日目の光」は何かというと、「無公害の光のイエス様ご自身の光」と考えるのが妥当でしょう。主イエスは、ある時に弟子たち数人を連れて山に登り、顔は太陽のように輝き、衣も光っています(マルコ9:2-8)。また、黙示録22章5節の未来の記述では、太陽や月はなくなり、父と子羊が都の明かりであると書かれているからです。
●次に、植物が出来て二日目に鳥や魚が出来たことも重要です。植物は、花が咲いて4日以内に鳥や昆虫によって受粉しないと実をならせません。ですから、植物だけの地球が何万年、何億年も続き、その後動物が出来たという進化論の説はありえないことです。
●26節の「われわれのかたち」という言葉ですが、それは、福音主義神学の殆どが言うとおり、「創造主なる神の性質や能力などが人にも与えられている」ということです。それは、信仰、愛、創造性、社会性などです。知性なども、人間のそれは、他の動物とは比較できません。この脳力や性質を用いて、なすべき役割が「地のすべてのものを支配せよ」(26,28節)ということですが、それは、「支配者のように自由に振舞え」という意味ではなく、2章15節にある通り、「地を耕し、そこを守る」という意味です。
○勿論、父なる神は形がなく、人には見えない方です。しかし、主がご自身を示し、人と交わるときにはイエス様として地上に来られます。御使いもしばしば人のかたちをとられます。つまり、主が人と交わるときのかたちをあらかじめ決められ、来られた際に私たちと交わることが出来るようにと、同じ形に我々を造られたのです。ひとのかたち、それは、人として来られる時のイエス様の形であり、あらゆる被造物の中で最も美しく、力を発揮するにふさわしく、理にかなったものなのです。
2、「土地のちり」からアダムが
●次に、2章7節にある「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生き物となった。」という個所を見ましょう。
20年ほど前に、ある科学者に聖書のことで意見を求めたことがあります。当時、私はクリスチャンになったばかりで、聖書全体、特に創世記について徹底的に調べ、納得と確信を得たいと願っていました。その方は、普段は大変紳士的な方で、混声合唱団にも入ってマタイ受難伝なども歌う方ですから、聖書についての知識もありました。
しかし、創世記について改めて見解を伺いますと、その方は普段の冷静さを失って「罵詈雑言」の手紙をくれました。彼は、この2章7節の「ちり」という言葉を文字通り解釈し、次のように書かれました。・・・「聖書は、神は人をちりで造ったという。では、粘土の中にどれほどの元素や化学物質が含まれているというのか?粘土で造り、殆ど焼かなかったら白人になり、少し焼いたら黄色人種となり、よく焼いたものが黒人になったとでもいうのかね!?」と。
実は、聖書は、3,4千年前から、「地球はちりからできている」と書き、近代科学も、最近になって、地球はちり(塵)からできていることを認めている。宇宙のちりとは、全ての元素を含むものであり、人間も、その他の被造物も全て、この「塵」に含まれる「元素」によって、それらが組み合わされて出来ているのです。聖書にある言葉の意味をよく考えないで文字通りに受け取ると理解できない、一つの典型的な例です。
3、「アダムのあばら骨」からイヴが
●最初の女性イヴの誕生も同じような面白さがあります。多くの進化論者は、2章21節のイヴがアダムのあばら骨から造られた事に怒りを持って反論します。残念ながら、これまでの多くのクリスチャン、神学者もこの箇所が理解できず、困惑してきました。
●聖書を批判する人は、「イヴがアダムのあばら骨から造られたのなら、男性のあばら骨は、女性よりも一本少ないと言うのかね」などと反論したそうです。しかし、あばら骨というのは、最も細胞の増殖が盛んな部位だそうです。従って、現代なくなったからだの部分を再生させる整形手術の際は、あばら骨を使うことが多いとのことです。実は、それを体験された学者がいます。オーストラリアの科学者で、進化論の立場に立っていたある方が、ひどい交通事故で、自動車は大破し、顔の半分が吹っ飛んだそうです。彼は数百回の手術を受けましたが、現在、顔は元通り「丸く」復元しています。(眼だけは義眼)その手術で、顔の復元に使われたのは、彼自身のあばら骨だったそうです。その後、彼は、進化論の間違いに気づき、オーストラリアの創造論科学者の団体の代表になっています。
●このように、聖書は、それを疑う人には「躓きやすいように」、そして「皮肉をこめて」記述しています。他の例ですが、「動物、人間はアメーバ―から進化した」という進化論をあざ笑うように。造られた生き物の最初は「くじら」です。(1章21節)
また、何度も聞いている通り、最初の生物と言われるアメーバ―の足の部分には、近代科学の粋を集めたジェットエンジンと同じ構造が発見されていますから、どんな生き物も、原始的な形から進化したということはこの一事をもって完全に否定されます。
二、「象徴、隠喩」と「文字通り」
1、聖書理解に必要なこと
●聖書の記述を理解する際に必要なことは、特に創世記や、黙示録では、隠喩や象徴も使われているということです。ですから、大事なことは①は文字通り解釈する、②は象徴的に解釈する、③は隠喩=深い意味を読み取ることで、これらを組み合わせて理解することが大事です。勿論、④として、聖書全体から解釈することも常に大事です。
○1章3節の一日目の光は④になりますが、聖書を信じる科学者の説明も不可欠です。
○2章21節の「あばら骨からのイヴの誕生」は、①と③です。この場合、もし③だけですと、「愛情の宿る所の骨」であるという解釈だけになります。これはこれで結構ですが、文字通りにも受け取ることが可能です。
○2章7節の「土地のちりで人が創造された」ということは①ですが、光同様、元素であるとの理解が必要です。
2、「善悪の知識の木の実」と「いのちの木の実」
●2章17節の「善悪の知識の木」と「いのちの木の実」はどうでしょうか?ここでは、議論があるようです。特に善悪の木の実は①文字通りでよいという見解もありますが、福音主義では、②と③の象徴的な意味、隠喩(深い意味)と受け取ります。最大の理由は、3章5節の「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」という言葉にあります。「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになる」というのは、自分が神のようになり、自分で善悪を判断して生きるという「生き方」を示しているからです。
その木の実が、生命科学的に何かの効果があるとか、細胞学的に死に向かわないとかいう話ではなく、生き方を示しているから象徴的、隠喩的に解釈するわけです。
●私たちの滅ぶべきからだは、イエス様の再論後、イエス様から瞬く間に復活の体に変えられます。パウロがコリントの手紙に書いているように、その時パンや木の実が配られるというわけではありません。
○但し、パンの奇跡の時に実際にパンが配られて、人々が満足したように、「新天新地」では、すでに永遠のいのちの体が与えられた後でありますが、「いのちの川のほとりの木の実=いのちの木の実」も食べることが出来る、すなわち文字通りにいのちの木の実も食べるということも信じてよいと思います。
○ですから、私たちは、「全て文字通りに解釈しないといけない」「いや全て象徴的解釈でないといけない」と、あまり厳格で対立的な解釈をせず、幅広く、おおらかに受け止めることが大事なのではないかと思います。
3、「善悪の知識の木の実」と死
●次に、2章17節にある「善悪の知識の木の実を食べると死ぬ」という言葉の意味です。これも、①文字通りと③隠喩の深い意味の両方があります。
聖書には、「死」という言葉は「創造主なる神とのつながりが切れる」という意味があり、結果として「肉体の死=文字通りの死」が与えられます。イエス様を信じない人が「死んでいる」というのは、繋がりのことであり、それは、肉体の死―裁きとしての死に繋がります。しかし、イエス様の救いを信じると、「繋がりが回復され」、結果としては、「肉体の死」は残っていますが、罪が解決されていますから、裁きとしての死ではなく、すぐに天に挙げられ、後に復活の体も与えられます。
アダムが2章17節で、食べると「必ず死ぬ」と言われたのは、「繋がりがすぐに絶たれること」=霊的な死であり、その結果、後に肉体も死ぬようになりました。アダムは全部で930年生きていますから、肉体は即死ではありませんでした。しかし、確実に死が来ました。
●アダムによって、全ての人に死が入ったとありますが、私たちも、善悪の木の実(何かの木の実)を食べている訳ではありません。しかし、善悪を自分で判断して生きてきました。それが善悪の木の実を食べてきたということです。しかし、イエス様が私たちを救うために地上に来られ、身代りに罪の罰を受けて下さったので、今は信じるだけで霊の死=繋がりが回復され、肉体の死も解決されます。
三、ノアの息子たち
1、洪水の真実性*6-8章)
●ノアの3人の息子に入る前に、4章から8章を少し説明しましょう。
4章には、アダムとイヴの子どもたちのことが書かれています。アベルの死は省略しますが、4章17節ではカインは「町を建てていた」とあります。その子孫のヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者となっていますが(20節)、カイン自身も家畜を飼っています。
また、ヤバルの弟ユバルは立琴と笛を=音楽を始めています。22節では、トバル・カインは青銅と鉄あらゆる用具の鍛冶屋になっています。つまり、人類は、誕生当初から高度な文化的生活をしているわけで、類人猿のような時代があったわけではありません。
また、4章26節では、「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、アダムとイヴの最初の二人の子(カインとアベル)のあとに与えられたセツの家系のものが「神の子の家系」として導かれています。
●ですから、6章2節(P.8)にある「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」ということばは、「セツ」の家系の子孫が、カインの子孫たちと交わってしまい堕落したということを教えており、このことが主の最大の怒りを買っています。つまり、「ノアの洪水の直接の動機」がこれです。
ここで、主は、「人が肉にすぎない」からと言って、人間の年齢を120年までにしようと言われたことが重大です。
●以前、ある教団の聖書辞典を購入して調べたことがありますが、それによりますと、5章にある900歳前後という長寿の個所では、「人体の構造上あり得ないことである」と全面否定していました。この辞典は、聖書を疑い、人間的、進化論的に解釈する教派のものですが、聖書のことば、表現を今の常識から判断して否定しています。「900年も生きたということは理由は何か、どういう状態ならそうありえたか」、などと信仰によって求めることがありません。5章の次の6章3節には、「120年にしよう」という言葉があることから見て、5章の記述は、愚かな神話や非科学的なこととして一蹴するのは危険であると、なぜ考えなかったのかと残念でなりません。聖書は、今は120歳が限度になっていることを書くということは、「洪水以前の地球は今とは違ったのだろう」ということを想像することが大事です。真実を知りたいという願いがあれば、真実を理解する知恵が与えられます。しかし、「聖書は愚かなこと、間違いを書いている」という前提を持てば、到底真理を知ることはできないでしょう。
2、3人の息子から全世界の民が分かれ出た
●最後、少しになりましたが、ノアの子どもたちのことを見ます。9章19節には、彼らから全世界の民が出たとありますが、以前安井伝道師の説明にもあった通り、3人の息子から今の人類の人口に達することは充分可能です。進化論では、人類は、それぞれ別な動物から進化したという理論となり、オーストラリアのアポリジニに対する迫害(彼らは、人間と認められなかったので虐殺された)やナチスドイツのゲルマン民族優越の思想やユダヤ人虐殺などの数々の悲劇を生みました。しかし、人類はみな、本当はノア兄弟の子孫です。
●次の10章には、彼らの子孫の分布、系図が記されていますが、10章6節からのハムの子孫はエチオピア、エジプトなどアフリカ人(黒人)となっています。また、15節にあるシドン、ヘテ、エブス、エモリ人など、中東でのもっと罪深い民として裁かれる民ともなっています。
次に、2-5節のヤパテの子孫は全ヨーロッパに分布しており、彼らの子孫はアジア、南北アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに広がっています。つまり、欧米の民も、アジア、南北アメリカの先住民も皆、ヤパテの子孫、兄弟なのです。
ラオスやカンボジアに少数民族がたくさんいますが、その中の一つに特別クリスチャンの多い民族(カレン族?)があります。彼らの話では、ある時ヨーロッパから宣教師がその民族のところに来たそうですが、その後民族挙げてクリスチャンになったそうですが、それには次のような経緯があったそうです。その民族では、大昔からある宗教的な戒め(偶像礼拝をしない)が伝承されていたそうです。同時に、次のような伝承があり、それを堅く守っていたそうです。それは、「私たちの先祖は、乱暴者で、先祖からの救い主に関する教えを無くしてしまった。しかし、後の日には、必ず、その兄弟から元の正しい教えが伝えられるから、その時は民族挙げてそれに従うように」というものでした。そして、キリスト教宣教師が来て福音を話したときに、「これこそが、数千年間待っていたものです!」とすぐに理解して、民族挙げてクリスチャンになったというのである。これは、アジア人とヨーロッパ人が同じ兄弟から出たということの一つの証です。
●また、セムの子孫は、アラム、ウツなどの名前が知られていますが、中東地域に住んだ民です。今のイスラエル人、中東の諸民族もセムの子孫、特別宗教的な民族です。
3、ヤパテは広がる*27)
●9章21-29節には、父ノアと3人の兄弟のエピソードがあるが、ここで、ハムのやり方に父は怒り、ハムの子孫カナンを呪っている。そして、ヤパテは広がるとの預言をする。その後の4000年の歴史はこれを裏付けている。先ほどの説明にもあった通り、ヤパテは全世界に広がっている。キリスト教もヤパテの子孫を中心に広がっている。しかし、現代では、アフリカにも教会が広がっているので大変喜ばしい。主の大いなる恵みを褒め称えたい。
*最後に、使途17:16(P.264)の次のことばを読んで終わります。
「神(創造主)は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。・・・」●祈り」
大寺俊紀
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