2009年5月第1週のメッセージ
「創世の地球の素晴らしさ」
●聖書箇所:創世記2章1-15節
「一、雨の降らない地球
1、「地上に雨を降らせず」という表現
●進化論の影響を受けて生きていると、すべて「今、目に見えること」「今の科学の常識」が絶対に正しいと思ってしまいます。そして、「科学」ということを考えた際は、「実験科学」での証明が全てと信じてしまうところがあります。しかし、それでは、信仰が持てませんし、持つとしても人間的な解釈をした神学になってしまいます。
①例をあげると、私たちは、「雨が降らない地球」はあり得ないと思っています。雨が降らなければ、干ばつとなって植物、そして動物、さらに人類が生きていけないと信じています。
②次に、「川」というものは、雨水が山から染み出て、源流となり、やがて支流が集まって大河になり、海に注ぐことを見ていますから、それ以外の現象があるとは、想像すらできません。ですから、2章の「雨が降らないのに、四つの川がエデンの園から出て流れていた」という記述は、まるで、夢物語のような馬鹿げた話になります。
③さらに、聖書は、7節で、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とか、17節の「善悪の知識の木」、21節の「アダムのあばら骨からイヴが造られた」と続きますから、まず99%の人は、聖書を馬鹿馬鹿しい「おとぎ話」と捉えるでしょう。
●しかし、5節の「地上に雨を降らせず」という言葉からわかるように、雨が降ることも、降らないことも、「自然現象」である以前に、創造主の権威によって定められているということ、そこに注目しなくてはなりません。
●ですから、私たちクリスチャン、教会にとっては、聖書の正しい説明やクリスチャン科学者の研究がとても大事になります。これらがなければ、創世記に対しては「目をつぶって何も言わない=無視をする」か、逃げるか、あるいは聖書の真実性を疑って、「聖書は間違いだらけの書」だとの間違った神学に陥ることになります。
2、雨のない地球と川
●丁度60歳の時に、私は絵の生徒で山好きな人の紹介で、約10人で立山高原に行きました。それは、私にとっては、次のような貴重な経験をする機会でした。
8月5日から3泊4日で海抜2100Mの山のホテルに泊まりましたが、二日間は、毎日猛烈な霧で、午前中の数時間以外はホテルから出ることも出来ない程でした。ところが、三日目の朝は快晴、ホテルの周辺は雲一つない360度パノラマ、立山や槍ケ岳などの見事な山々に感動したのですが、同時に、高原の植物は、幅数キロ以上、長さ20キロ以上という大規模なお花畑でした。殆ど一本の雑草もなく、全ての花が咲き誇っていました。あまりにも綺麗で、同行したある大人の方は、「先生、このお花畑はだれが植えたのですか?」と真面目に聞いていたほどです。全員が「ここは天国みたいだ」と言っていました。
●その時、気づいたのですが、毎朝雨は一滴も降っていないのにお花畑がびっしょり濡れていたことです。それが、創世の雨の降らない地球の姿でした。つまり、雨が降らなくても、霧が立ち込めると植物は充分育つのです。
●しかし、「雨が降らなければ、川は出来ないのではないか」という疑問が生じます。確かに、人類はチグリス、ユーフラテス、黄河、ナイル川などの大きい河の周辺に古代文明の華を咲かせました。チグリス、ユーフラテスは14節にも登場します。しかし、それらのことを考えますと、何れも大河の氾濫によって、下流にデルタ地帯が生まれ、その洪水がもたらした肥沃な土壌で農耕が発達したという歴史があります。しかし、この「歴史」は、聖書が教えるエデンの園時代のものとは違います。それらの古代文明はエデンの園時代の後のことです。
3、雨の功罪
●今、私たちが見る世界は雨が必須、というより絶対条件であり、雨なくして地球環境と生命保持は成り立ちません。しかし、雨というのは「功罪」があります。立山高原のように毎朝霧でびしょぬれになれば雨が必要ありません。
そもそも、雨は何故降るのか、そこから考えるとわかります。雨は前線によって降ってきます。高気圧と低気圧が生じ、それがぶつかって前線が生じ、降雨の恵みをもたらしますが、同時に、雨は「洪水」をも副産物として被害をもたらします。また、時々、前線が発達して台風やハリケーン、サイクロンなどももたらし、多くの被害を与えます。
●ですから、霧が立ち込めて、降雨の必要がなく、さらに、10節にある通り、地球の中心から湧き水が出て、それが地球全体に潤すとなれば、完全に安全で、豊かな恵みをもたらします。10節には、4つの水源を教えていますが、そこに、現存するチグリス、ユーフラテスの名もあるということは、中東にエデンの園、創世の地球の中心があったということです。
二、1章6,7節の大空の上の水
1、なぜ恐竜がいたことを考えてみれば・・・
●私たちは、今目にしていることが全てという「前提」や「常識」を疑ってみることも必要です。その際、かつての地球には恐竜がいたということも考えないといけないでしょう。「恐竜」、これが、今の地球に存在できるでしょうか?ジェラシックパークの映画のように、DNAさえ手に入れば、クローン恐竜が再生し、今の地球でも生きることが可能でしょうか?
●恐竜の大きさを考えてみましょう。大きいものは40―50メートルでした。大きい翼をもつものもいました。当時は、5メートルの怪鳥、羽が1メートルのトンボ、アンモナイトも1メートルの大きさでした。つまり、あらゆる動植物が巨大でした。勿論、食料の植物も大きかったでしょう。しかし、最も大事なことは、「気圧」が高くないといけないことです。クリスチャンの科学者たちは、創世の地球は今の倍の気圧(2気圧)だったと推測しています。そうでないと、巨大な動物たちが行動できないし、空も飛べないからです。では、その気圧に関する聖書記述があるでしょうか?あります、それが、1章6,7節です。
●1章6節の「水の区別」は、今私たちが肉眼で見ている「海の水と空の雲」のことではありません。「大空の上の水」とは、地球上空の高温帯(人工衛星が再突入する時に燃え尽きる危険性のある地帯)に水を「水蒸気」として挙げたということであろうと言われています。この解釈は実にすばらしい恵みを教えるものとなります。
●今の地球にも、オゾン層やバン・アレン帯と呼ばれるバリヤがあり、地球上の生命を守っています。しかし、これらだけでは、不十分です。ノアの洪水後、人のいのちを120年にしようと主が言われたのは、洪水によって「大空の上の水」が無くなり、地上に紫外線などが降り注ぐように悪化したということです。生命科学の学者や遺伝子を研究されている学者たちは、「地球に紫外線や様々な有害光線が降り注がなければ、細胞の劣化が減り、人はもっと長生きになるだろう」と言います。
●つまり、創世の二日目の「大空の水」が地球の上空に分厚い水蒸気の層を造り、地球の気圧を二気圧(?)にし、地球全体を同じ気圧とし、気圧の差(高気圧、地気圧)がないために低気圧、高気圧、前線が発生せず、雨を降らせず=嵐もなく、地球全体が温室のようになり、植物は大きく、動物も大きい、恐竜も走ったり飛んだりできる、そして、有害光線がほとんどないために人の寿命も長い、という環境を作ったのだと言えます。
●創世記5章には、創世当時の人の寿命が千年近いことを教えています。アダムの罪によって「死が入った」にもかかわらず、洪水までの人は今の10倍でした。創世の地球では、大空の上の水があったために、細胞が老化しないというエデンの園の恵みが続いていたのです。2章5節の「神である主が地上に雨を降らせず」というのはこれほど大切な恵みを教えています。
●川も恵みです。それは決して氾濫することはない川です。エデンの園から湧き出る水です。地球全土に平均して流れていたでしょう。洪水以前の地球は、陸地が一つ、海も一つでした。まるで、公園のように設計されて、完ぺきに創造されたのが創世の地球だったのです。この川についてはエゼキエル書47章(P.1442)にも詳細に記されています。
2、未来につながる希望です
●創世の地球が、聖書記述どおりだったということは、聖書の予言も100%完全に成就するという確信を私たちに与えて下さいます。
①イエス様の再臨の時に「天変地異」が生じます。それらは全て、主の御手にあってなされることが当然となります。地球環境がノアの洪水で「激変」して今のように変わったのであり、元々は完全な状態の地球が創造されていたということが確信できます。今、私たちが見ている地球は創世の地球とは全く違うのです。また、創世の地球が素晴らしかったということは、それは、そのような素晴らしい世界が、再創造されることに繋がります。
②旧約聖書、新約聖書の多くが、主の再臨後に「千年王国」がもたらされ、「荒野に水がわき出し」(35章)「人の寿命は木のようになる」、「100歳で死ぬものは呪われたものとされる」とあります。(イザヤ65章などP.1233)その再生された地球では、動物の肉食もなくなっていますから、(25節)創世の地球には「肉食」すらなかったという創世記1章29,30節の記述の真実性が確かなものとなります。
③さらに、死のない永遠の希望、黙示録などの未来の永遠の世界も、創世記の記述から見て、本来の姿であることを確信させるものです。
ということは、聖書の正しい解釈と確信は、本当に大事なことです。聖書の全てを真実のものとして受け止めることが出来ます。
3、「エデンの園=いのちの川のそばのいのちの木」
前のページで、「川も恵みです」と書きましたが、エゼキエル書47章12節をご覧ください。(P.1443)
●まず、水は1節では「神殿の敷居の下、祭壇の南、宮の右側の下」から出ています。最初は、僅かな水量ですが、進むに従って水量は増え、3節では「足首」まで、4節では「膝」に達し、5節では「渡ることが出来ない川」となっています。つまり、今、私たちが見る川と逆転しているのです。また、「この川の入る所では、すべてのものが生きる」と記されています。つまり、いのちの水の川です。さらに、7節では、川の両側に非常に多くの「木」があり、12節では、「あらゆる果樹」が成長し、「その葉は枯れず、実も絶えず、毎月新しい実をつける」ともあります。これは、今の天地が滅ぼされた後、新しく作られる世界(新天新地)やその前の「千年王国」と呼ばれる、再生されていく地球の姿です。
●今度は黙示録22章(P.501)を開きましょう。これは、明らかに、未来の新天新地です。
1節では、はっきりと「いのちの水の川」が「神と子羊の御座」から出てとあり、エゼキエル書と一致します。2節の川の両岸に立つ「いのちの木」も、エゼキエル書と同じく、12種の実がなり、毎月実り、その木は諸国の民をいやしたとあります。
さらに22節では、「いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を入って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。
●この「いのちの木」が創世記2章の園の中心にあったはずです。2章16節では、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」とありましたから、「いのちの木の実」も含まれていたはずです。食べてはならない唯一の木は、17節の「善悪の知識の木」でしたから。
そして、3章にある通り、アダムとイヴは禁制の善悪の知識の実を食べ、罰として「死」を与えられました。3章24節(P.5)では、アダムとイヴがエデンの園を追放されたのち、罪をもった人が、自分で「いのちの木の実」を食べないようにと、いのちの木の実は守られ、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれています。
イエス・キリストによって救われた者は、終わりの時に、この「いのちの木の実」を与えられます。永遠のいのちに至るものです。キリストにある「永遠のいのち」は、創世記、旧約預言、そして、イエス様のことば、新約の書簡、黙示録、全て一貫して、いのちの木、いのちの川として表現されています。
4、「創造のわざを休まれた」という言葉の意味
●最後に、1-3節の「創造のわざを休まれた」という言葉に注目しましょう。天地の万象は6日目に完成し、7日目には、「なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたわざを休まれた」とあります。
●完成していながら、「終えられた」とは言わずに、「休まれた」と言われるのは、その後の「人間の罪による堕落」を見通してのことと思われます。一度完成していながら、堕落によって罪が入り、死が入る、それは、万物は滅びていくという「エントロピーの法則が入る」ということであり、「永遠」の法則が一時棚上げされ、裁きと赦しを経て「再創造」のわざが必要となるということです。再創造のわざがまた必要とされる、「それまで休まれる」から、このように書かれています。
●イエス・キリストが来られたニ千年前、それは、「終わりの時」と言われます。それは、長い旧約の時代を経て、ようやく迎える救いの時、福音の時代であり、最後の終わりの時(終末)の始まりとなります。私たちは、このような終わりの時に臨んでいるのです。創世記にある素晴らしい創世の世界が、私たちに再び与えられる時を前にしています。この恵みを感謝して、歩もうではありませんか。」大寺俊紀
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