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2009年5月27日 (水)

2009年5月第4週のメッセージ

「狭き門」
●聖書箇所 ルカ伝22-30節(P.143)
はじめに:今週は、創世記は先週と同じサラに関する箇所でしたので、旧約を休憩し、新約の個所をお話します。ルカ13章には4つのお話がありますが、今日は三つ目の「狭き門より入りなさい」という個所を取り上げます。
 この狭き門よりという言葉には信徒向きの意味と一般未信者向けの意味がありますが、どちらの場合も根本の意味は同じです。

一、狭い門と広い門
1、流れに沿う生き方=広い門
●いつの時代の、どのような支配体制の社会でも、ひとは、その流れの中で竿をささずに生きていくのが「賢い=要領の良い」生き方とされる。そのことを少し歴史的に振り返ってみたい。
○アダムとイヴ:サタンの誘惑を拒否して生きていたらどうだったか?おそらく何度も誘惑があり、それに乗った方が楽しそうだと感じたに違いない。
○洪水以前:人々は長寿で、楽園のような地球、楽しみと誘惑が一杯。何の恐れもなく謳歌して生きる中で、100%社会の流れの中で生きているだけで一切問題はないと思っていただろう。「怒りの裁き=洪水が来るぞ」というノア一家の警告は馬鹿馬鹿しいだけで、それは、「ロバが針の穴を通るほどの狭い門、愚かなこと」と感じたに違いない。その中で、ノア一家8人だけが言葉に従ったのは偉大な信仰だった。
○諸帝国の社会では:アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマなどの帝国下にあった人々は、①支配者階級での成功を目指すか、②非支配階級として一生を過ごすかのどちらかで、それも自らの所属は先に決まっており、99%選択の余地がない。数百年続く帝国の支配は、自由、平等、博愛などの精神そのものがあることを知らない。家畜に近い生き方も多かったと思える。与えられた社会の中で疑問も持たずに生きるだけ、流れに流されるだけ、それが当時の生き方であった。そんな社会の中で、アブラハムは「主を恐れる信仰」があるとして選ばれた。ここに偉大さがある。
○ローマ帝国下のクリスチャン:ご存じの通り、300年間の迫害があった。キリストの復活を信じるものは生きたままライオンに食べられる、子どもの目の前で、のこぎりで切り殺される。こんな刑が当然の社会。「努力して狭い門から入れ」という言葉には、このような、厳しい迫害下の聖徒を励ます目的が強かったと言える。
 また、ローマ帝政下では、皇帝崇拝が盛んであり、(他の帝国でも絶対的な支配者への崇拝は当然のこと)事業や商売をするには、組合=ギルドに加盟しなければならないが。そこでは会議の前後に偶像礼拝=偶像の前での礼拝と食事や飲酒が鉄則であり、それに喜んで参加することが広い門であり、キリスト教徒への落とし穴になった。
○中世の日本では、ある程度キリスト教が広がったが、激しい弾圧を受け、「隠れキリシタン」となる意外に道はなかった。「信仰を捨てれば、広い門を安心して歩める」、反対に信仰を守ることは「いのちがけの狭い門」であった。
○戦前の日本は、明治以来のキリスト教解禁が解けていたが、天皇制支配下に置かれ、戦争に協力し、先祖崇拝をし、同時に天皇万歳を叫ぶのが「広い門」であり、これらに従わずに信仰を守ることは「極端に厳しい狭き門」となっていた。

2、戦後の日本、現代の世界では
●戦後の日本はどうか、また、現代の世界ではどうか:
 日本や欧米の社会では、「進化論」が全盛であり、過去のキリスト教国も、「信仰を持たないことが進歩的な知識人、文化人」であり、持つことは大変狭い門となっている。かつての共産圏、社会主義圏では、信仰は国の敵、共産主義の敵であり、最も愚かな狭い門を選択することであった。現代の中国でも、共産党員になる、あるいは、最近では実業家になることが社会的な成功と一体であり、信仰は地上の人生の成功と完全に決別することであったが、にもかかわらず、多くのキリスト教徒が誕生している(約8千万人)。彼らは今の世の成功より、永遠のいのちの約束という「狭き門」を、勇気を持って選んでいる。
●現代の日本では、まず、進化論という最大の壁があり、次に先祖崇拝という二つ目の壁がある。「愚かなキリスト教信仰などを持たないで、学業と仕事だけを成功させ、高齢になれば先祖崇拝だけをしておけば、誰とも摩擦を経験しない」これが、「最も広い道、広い門」とされている。
●最近、公開されている話題の映画に「グラン・トリノ」というのがある。(クリント・イーストウッド監督)素晴らしい映画であるが、その中で、イーストウッドが教会の若い神父に反抗し「神学校出たての若造が、マニュアル通りの説教をし、老婆の手を取って永遠のいのちを語る・・・」と、毒づく言葉が印象的である。その厳しいことばは現代アメリカ人の本音であろう。フランス映画やイタリア映画の中でも、殆どの若者や知識人は、キリスト教は「時代遅れの歴史的遺物」と見るのが主流である。
 しかし、時代の主流はそうであっても、一部には最終的に教会の役割や救いに辿り着くものもある。グラン・トリノにしても、主人公は、「敵をせん滅する」という映画的見世物としての結末ではなく、神父の前に出て「懺悔」をし、その後、「キリストの道に歩む」が、映画の広告やパンフレットには、「こんな素晴らしい映画がなぜ造られたのか、信じられないほどだ。こんな結末をだれが想像し得たであろう、まさに奇想天外な結論」などとしか書かない。「聖書の福音と同じだ」と語る者はいないが、イーストウッドは狭き門に気づいて、腐敗堕落した社会には、これしかないという思いが与えられたのであろう。
3、人間の限界と罪に打たれること
●先日のGE展である画家とゆっくり話す機会があった。彼は今回久しぶりの出品であったが、画家としては「成功」しているらしい。(他に二名出品していない人がいたが、彼らも最近引っ張りだこで多忙とのこと。GEグループには他にも1,2名そういう方がいる。)話を聞くと、画廊と契約していて、ホテルや新築のビル=特に外資系の会社にまとめて数十点納品すると聞いた。150号、300号の作品もロビーなどに飾られるという。美術界でも身近な人に成功者がいるのに驚いたが、美術、音楽の世界などで著名になり、売れるのは1%もいない。
●日本の官僚社会では、ひとりの次官が誕生するために(次官には一人しかなれない)、ほぼ同世代の官僚は、全て途中で天下りをすると聞くが、官僚の場合は天下りをしても生涯高給で安泰である。
●しかし、芸術の世界は、成功者以外の人は天下りをするところがないから競争は熾烈となる。先日のJOINの上野有姉妹の証しでも、芸大生の醜い、自我むき出しの競争の中に自分も巻き込まれていたと気づき、「勝利者でなくても、そのまま、ありのままで良いですよ」というイエス様の言葉に打たれてクリスチャンになれたとあった。クラリネットの三戸久史さんも同じような証しをされていた。
●一般の勤労者、中小の企業家などにすれば、天下りも、生活安泰もなく、中庸の生活が送られればそれでよいというのが本音だと思うが、現実は、非正規雇用やリストラが多く、平均的人生を送ることすら危うくなっている。さらに、資産や名声などに関係なく、すべての人に共通する「限界」がある。それは、「老、病、死」
 現状の如何にかかわらず、全ての人に押し寄せるこれらの難問、また、これ以外にも子どもや伴侶、親などに課題が生じる。この時、何を考え、求め、自らと人間の限界に気づくかどうか。へりくだって救いを求めるかどうか、そこに鍵がある。それは、誰でもが歩む、広い門ではない。社会や時代の大勢に流されるだけで、よく考えないで歩んでは決してくぐることがない。時代や、風潮や、単なる先祖からの言い伝えではなく、創造者からのことば、救い主のことば、それは「狭き門」と感じるかもしれないが、これを聞いてみようとすることが大事である。

二、「努力して狭き門より」:信徒向きには

1、クリスチャンにとっての「努力と狭き門」
●クリスチャンにとって、「努力」と「狭き門より入れ」ということばには誤解を招く危険性がある。誤解をすると、努力したが入ることが出来ないという結果になることもある。
●最大の注目点は「狭き門」への誤解である。これを一般社会の常識で考えてはいけない。一般には、このことばは、受験戦争と同じで、「他人を蹴落としてでも自分を高めていき、成功者となる」という意味でしかない。
●先ほどのJOINの上野有姉妹の証しにもあった通り、競争社会での格闘が人間の心を蝕み、非情になり、愛を無くして自己実現に邁進する、この罪に気づき、180度転換することが救いへの最大の一歩なら、救われて後も同じ姿勢を守らなくてはいけない。
●競争による自己実現でなく、愛による歩みなら、「努力すること」も同じ愛の歩みの延長でないといけない。では、何故そのことが言われているのかというと、「へりくだって愛に歩む」ことが、人間にとって一番難しい歩みだからである。
●救われたときに、それまでの生き方を一挙に180度突如転換できる人もおられる。しかし、その方の場合でも、最初から完全とはいかない。そして、知識が少なく、祈りも少なく、聖霊に満たされていなければ、元の罪の顔が出てくることもある。今までは社会の中での成功を目指していたが、「今度はキリスト教会内での成功を目指す」という危険も残っており、教会内で人を裁くということも起こる。
*尚、教会の祈りで「毎年10人以上を」と祈るのは成功を目指すことではない。「後継者と30人以上というのは教会存続のカギ、条件」だからである。
●多くの方は、一挙に180度ではなく、徐々にいままでの歩みから、御霊に満たされた、キリストの似た歩みに変えられていく。何年、何十年という信仰生活の中で、常にへりくだり、教えに従い、奉仕などの実践も経験しながら変えられていくのである。「私はクリスチャンになったから、今後一切罪はなく完全です。」と言える人など一人もいない。
●このような意味で、「へりくだって、愛の中を歩み続ける」というクリスチャン生活は、社会との関係だけでなく、自分の中の罪との、長い信仰の戦いであり、「努力して」自分を低くして「狭い門」を通り続けることが大切なのである。
2、「不正を行う者たち」27節)「入れなくなる人たち」24節)
●24節では、入ろうにも入れなくなる人が多いとある。主人が戸を閉めてしまうと、それまで一緒に働いていた人々の中でも、締め出される人が多く、彼らの訴えは聞かれず、「不正を行う者たち」と言われている。27)
●信仰を持ち、同じ働きをしたはずの者でも除外されることがあるというのは厳しい。その理由は何か。不正の内容は書かれていない。聖書の他の個所では(Ⅰコリント3:12-15)「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。・・・」とあり、金、銀、宝石など、主の御心に沿って建てたものは焼かれず、木、草、わらなどの人間的な動機で働いたものは焼かれるとある。
救われる以前の、人間的な自己実現がそのまま引き継がれ、他を非難し、自己実現を図り、自己の栄光を求めるなら、それは広い門を通ること、不正の道であり、身をかがめて小さくなることではない。
3、「今、先頭のものがしんがりになる」30節)
●さらに、30節ではもう一つの戒めが語られる。それは、今、先頭の者でも、しんがりになる、というもので、このことも、広い門を通るという一般社会の常識とは正反対である。
一般社会では、普通なら重役や部長は課長以上の中から選ばれ、よほどの資質の問題や不祥事がないと、部課長を飛ばして係長を部長や重役にし、部課長を平社員にするということはなかろう。しかし、教会では、先輩は常に先を歩くわけではない。お互いに敬うことは大事であり、競争原理を持ち込むことはないが、今、先頭の者でもしんがりされる。先の者でも、自分を高くし、後の者を低く見て、支配しようとするなら、また、より良い賜物や奉仕を求めることなく、成長がなければ後になることも多い。これは、主がなさることである。

三、「狭き門」を入るための鍵(姿勢)
1、人間、自分の限界を知る
●ここで、もう一度、クリスチャンでない方、一般の方に呼びかけたい。
自分の働き、力、努力だけに頼り、創造主なる神の救いのご計画を求めることのない方々、どんなに力があり、努力しても、人間や自分には限界があり、また衰えと終わりがあることをしっかりと自覚してほしい。自分のしていることが完全でなく、的を外していること(罪という)、そして、最終的な解決、勝利がないことを知ってほしい。このことを認め、全能の主に自分を委ね、その救いを求めてほしいと願う。
2、自分のかたくなさを知る
●何度聞いても心を素直にしない。何の保証や約束もないのに、「皆が通っている広い門だから」ということで歩んでいる。疑い、反発し、逃げ、困ったときだけ不安になるが、安定するとすぐに忘れてしまい、先のばしにする。特に、日曜日は自分の自由時間であり、それを犠牲にして礼拝に参加することができない。
●自分は正しい、むしろ他の人と比べて優れている点が多いから「救い」は必要ない。このようなかたくなな心で背伸びをし、胸を張って自分を大きく見せようとする姿である。これでは、狭い門に入り、通ることが出来ない。
3、小さくなる
●茶室に入るときは、その小さな入口のために、全ての人は腰をかがめなくてはいけない。昔の武士も、腰の刀を差したままでは入れないからそれを解かなくてはいけなかった。このお茶の制度は、クリスチャンであった人が聖書の教えに沿って定めたものである。(ちなみに、お茶を飲む儀式も聖餐式に習っている)
 同じように、自らを高くする人は救いの道に入れない。たとえ地位が高くてビッグになり、勝ち組になっても、自らを大きくするものは狭い門を通れない。狭い門を通るために自分を主の前に小さくすること、腰をかがめ、力や権威を取り外し、自己主張をせず、主の前にへりくだって従うということ、そのことを一生努力して続けること、それが主の恵を受ける唯一の道である。
●信仰を持つ時だけでなく、その後も一生それを続け、心の底から謙虚になり、主を崇め、仕えていく努力をする、それが、「努力して狭き門から入る」ことである。
救われて尚、成功と、自己を大きく見せるための努力をするのでは、過去の罪の道と同じ。自分の栄光ではなく、主の栄光のためにへりくだって仕えていくこと、小さくなることは何もしないということではない。宣教のため、あるいは教会活動のため、賜物を受け、役割を与えられ、へりくだって忠実に果たしていく、そこに「努力」が必要となる。隣人愛にも努力が必要である。私たちはイエス様の十字架によって永遠の救いを受け、恵を受けた、そのことを信じ、心から感謝してはじめて出来る歩みである。    ●祈り」大寺俊紀

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