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2009年5月30日 (土)

2009年5月第5週のメッセージ

●聖書箇所:創世記30章22-24節(P.52)
ヤコブとラケル
はじめに:先週は、一度創世記を離れてルカ伝を話しましたが、今週は再び創世記で、ヤコブを話します。次週はヨセフです。この5回で、創世記の主要人物が全て登場します。
 先週の土曜に私の兄が亡くなりました。兄弟というものは、一番葛藤があるものでして、年齢順にスムースにことが運ばないものです。
 先週の二日間の葬儀に、兄の高校時代の友人二人(AさんとBさん)も参列して下さっていまして、色々話すことがありました。Bさんは、二男で、もう一人のAさんは長男でした。Bさんが言うのには、「長男は勝手なもので、長男風を吹かして偉そうに言うくせに、意外に親の面倒を見なくて、自分の道に進む者が多い」とのことで、私の兄も、もう一人の同級生のAさんも、長男なのに親の世話はせず、遠くに飛びだしたままだったと話していました。(Aさんは親が鉄鋼関係の会社社長で、息子に後継を期待して東京の大学に行かせたのに、会社員になり、親の会社を継がなかったらしい。)Bさんは同じ次男なので私に共感を抱き、「君は次男なのに親の世話をして偉い」と盛んに褒めていました。(わたしは、自分を偉いとは思っていませんが)
 聖書にも、兄弟の葛藤が沢山登場します。代表的なのがこのヤコブとエサウでしょう。二男の私が、正直少し嬉しいのが、長男必ずしも信仰が厚く後継者になるとは限らない、ルカ13章30節にある通り、「あとの者が先になり、先の者が後になる」ということです。

一、ヤコブとエサウ
1、「兄が弟に仕える」という預言
●聖書を見ると、主のご計画にある者には、「不妊」ということが多い。まず、アブラハムの妻サラは89歳まで不妊であり、妻90歳、夫アブラハム100歳でイサクが誕生している。次に、イサクの愛妻リベカも不妊であった。主に祈願してようやく与えられたのがエサウとヤコブである。(創世記25章21節P.41)さらに、ヤコブの愛妻ラケルも不妊であった。他にも、ザカリヤの妻エリサベツが年老いて妊娠して、バプテスマのヨハが誕生している。(ルカ1章7節以降)又、預言者サムエル誕生の場合も、不妊の女だったハンナが、Ⅰサムエル記1章11節にあるとおり、「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。」と祈って与えられている。つまり、主のご計画に或る者=聖別された者には特殊な計画が示されるから、祈り求め、ハンナのように「主に捧げる」という思いが必要という場合があることを覚えたい。
●母リベカが妊娠した時に、子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになり、心配した母は主のみこころを求めに行った。すると23節のように「二つの国民があなたから分かれ出る。兄が弟に仕える」と示される。兄は、全身赤くて毛衣にようでエサウ(赤)と名付けられ、弟は、兄の足をつかんで出てきたのでヤコブ(つかむ)と名づけられた。
●兄エサウは猟が得意で野性的、弟ヤコブは天幕に住む穏やかな人となった。ある時、ヤコブが煮物を煮ているとき、兄エサウが飢え疲れて野から帰ってきて、その煮物を強く求めた。それが赤い豆だったので、彼にはエドム(赤)という名が付き、エドム人の祖となった。この時、エサウは決定的な失敗をした。ヤコブの「長子の権利を売ってくれ」という言葉に乗って、たった一杯の煮物と引き換えにそれを売ったのである。34節にはエサウはこのとき「長子の権利を軽蔑した」と書かれている。(当時の社会では、長男の権利は親から全部を譲られるというとても大きいものだった)ヤコブがこの時にこの話を持ち出したのは、長子の権利が与えられないという、次男故の空しさを感じていたことや、エサウの態度に、長子としてふさわしくないと不満を持っていたと思える。
2、父イサクのあいまいさと母リベカの熱心さ
●母親のリベカも兄エサウに不満を抱いていた。また、母は誕生前の主の預言を忘れることなく、弟ヤコブを愛し、弟に祝福が来るようにはどうすればよいかと常に考えていた。しかし、父イサクは自身の貴重な生い立ちや父の信仰にもかかわらず、約束の民の父としての自覚に掛ける点があり、兄エサウが長子としてふさわしくないところがあるにもかかわらず、長子の権利、祝福に対して毅然とした態度を取らず、猟師(狩人)としてのエサウの腕とその食事に惹かれていた。
●父イサクのいい加減な態度は母リベカの焦りを誘った。父イサクは年老いて子どもへの祝福をするに当たり、エサウに狩りをしておいしい料理をして食べさせてほしいと依頼し、その声をリベカが聞いた。(27章1-5)その結果、母リベカは夫イサクを騙し、弟のヤコブに祝福がいくように計略を図った。ヤコブは騙すことに迷いがあったが母に従う。
●父イサクの曖昧さ。約束の民の父としての任務を軽んじていたことは罪深い。直前の26章34-35節を見ると兄エサウは約束の民でないヘテ人の娘を、それも同時に二人妻にしている。更に、その後のことであるが、28章8~9節では、カナンの娘たちを妻にしてことが父イサクの気に入らないことを知ると、更に、イシュマエルのところへ行き、その娘を妻にしている。エサウは罪を悔いるどころか、逆に罪を増し加えて一層不信仰の道に走る。
 イサクは、自分の父アブラハムが、どのようにして約束の民の中からリベカを妻に迎えたかを聞いていたはずであり、更に、ヘテ人もイシュマエルの娘も約束の民でないことを知っていたはずである。兄エサウは約束と言うことを一切重んじないこの世の楽しみ優先の俗悪な人間であった。ヘブル書12章15-16節では次のように書かれている。
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、又、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(P.441)
3、重荷を負ったヤコブの苦悩の人生
●長男のエサウが長子としてふさわしくないことを知りながら、彼の猟(狩)による食事に惹かれて兄エサウに祝福を与えると約束した父イサクの行動は、次男のヤコブに重荷を背負わせることとなった。兄エサウに対して、「長子としてふさわしくないから 祝福をしない」と明言していればこんな事にならなかったからである。
●母リベカとともに父を騙して祝福を受けたヤコブは、兄の恨みを買うこととなり、命も狙われる。母リベカはエサウの復讐心知って、自分の兄ハランにいるラバンのところにヤコブを逃がすことにする。父イサクはようやく自らの愚かさに気付き、28章1節で、再びヤコブを祝福して送り出すことに同意し、カナンの地の娘ではなく、ハランにいる妻リベカの兄ラバンの娘から妻を迎えるようにと薦めて送り出した。
●兄に命を狙われ、父母の元を立つ事になったヤコブは今後のことで不安一杯になる。そして、荒野の旅が続き、あるところに来た際に、そのところの石を枕にして野宿する。しかし、不安一杯のヤコブに対して素晴らしい約束の啓示が与えられた。
28章12~15節にあるとおり、主イエスがヤコブの傍らに立ち、「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と語り、天の門が開けて、一つのはしごが天から地に向けて立てられ、神の御使いたちが、そのはしごを上り下りしているのであった。
●わたしがクリスチャンになり、聖書をテーマにする絵を多く描くようになった当初、一番沢山描いたのはヤコブの絵であった。28章12節のベテル、更に、32章24~30節のペヌエルの作品は今も階段のところに二点飾ってある。
 ヤコブの絵を沢山描いた最大の理由は、自分がヤコブに似ていることと、ヤコブのような祝福を受けたいと願ったためである。「自分がヤコブに似ている」と絵を前に話したときに、それを聞いたある方が、「大寺さんはヤコブのような罪深い男が好きですか!」とあきれていたが、わたしはヤコブの罪が好きというのではなく、主に祝福を求め続けた姿勢が好きであり、又、自分はアブラハムやモーセの様な偉大な者ではなくヤコブの様な者だと思っていたからである。

二、ラケルとレアの女の争い
1、騙したから、自分も騙される
●ヤコブが叔父ラバンのもとに到着した際、ラバンの娘ラケルが羊をつれて現れる。まるで、イサクの結婚のためにアブラハムが送った使者とリベカとの再現場面を見るようである。ヤコブはラケルを一目見て気に入り、自分の逃避行の旅が大成功になったと喜んだに違いない。その後の叔父ラバンとの話し合いで、叔父の元で働くことになり、ヤコブは報酬を求めず、ラケルとの結婚だけを求める。
●約束の7年はあっという間に過ぎた。しかし、父を騙して兄の祝福を奪ったヤコブは、今度は自分が叔父ラバンから騙されることとなる。父イサクが何の苦労もなく妻リベカを与えられたことを思うと、ヤコブは大変な苦労をしたものである。7年プラス7年、計14年も働いて得たのがラケルであったが、皮肉にも、騙されて与えられた姉のレアには子どもがどんどん生まれ、レアが与える女奴隷からも子どもが生まれる。しかし、最も愛しているラケルからは生まれない。最初に不妊のことに少し触れたが、この「ラケルの不妊」が驚くべき主のご計画であった。
2、「女の争い」が12人の子どもを
●29章31節からレアとラケルの「競争」が始まる。まず、姉のレアであるが、レアが嫌われていることを主がご覧になって、レアにみごもらせる。最初の子はルベン、更にシメオン。レビ、ユダが与えられる。そして一人一人にはレアの思いによって名前がつけられる。
●ラケルには子どもが生まれない。焦ったラケルは丁度アブラハムの妻サラと同じように自分の女奴隷ビルハを与え、生まれた男の子にダンと名付ける。次に与えられた子はナフタリで、これは、「わたしは姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」という事から命名されている。
●7、8番目の男子は、レアが女奴隷ジルパを与えて産ませた子で、ガド、アシュルである。更に、このあと、9,10番目の男子で、レアの産んだ子として5番目、6番目の子どもが与えられる。イッサカルとゼブルンである。女の子ヂィナもできる。
●11番目は30章22節からのラケルの子で、「神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」の意味でヨセフである。彼は、後に「年寄り子」と言われている。待ちに待った愛妻ラケルの子、そして年寄り子だったからヤコブは特に可愛がった。・・・このことが、又次の大変な展開をもたらすこととなる。(ヨセフは兄たちに嫌われ、エジプトに売り飛ばされる事となる」最後12番目の男子はヨセフの弟ベニヤミンで、彼もラケルから生まれているが、彼が生まれてすぐにラケルは死亡している。(35章16-19節)

三、全てをご存じの主のご計画と介入
1、父イサクを曖昧にさせた主の御心 
●ここで、「もし・・・たら」という仮定話をいくつか考えてみたい。
①もし、父イサクが、最初からエサウを否定し、ヤコブを選んでいたら、後継者問題はスムースに運んだか、あるいは、兄エサウは弟ヤコブを殺害していたかもしれないが、少なくとも、ヤコブは罪を犯すことはなかった。
②もし、母リベカが強引に進めていなかったら、エサウに祝福が行き、ヤコブへの祝福はなく、後のヤコブの12子誕生はなかった。
③もし、叔父のラバンがヤコブを騙し、姉も押しつけることがなかったら、12子は誕生しなかったろう。
 このほか、「もし・・たら」と言うことはいろいろ考えられるが、結局、レアとラケルの二人の争いがあったからこそ12人の男子が誕生し。しかも、ヨセフが年寄り子で、ラケルとの子であったからこそヤコブが溺愛し、それが後日に問題を起こすとつながっている。
2、ヤコブに学ぶこと
●「ヤコブは罪深い男だ」と言われる方がいた。確かに30章後半(25-43)のずる賢さは私にはできないが、私は、次男故の彼の苦悩に共感を覚える。仮に、兄エサウが信仰深く、祝福が自分に及ばないことが分かれば、彼の人生は大きく変わっていただろう。しかし、兄の不信仰によって自分に重荷がかかってきた。また、兄に関係なく、自分は主の祝福がほしいという強い願望があった。その熱い思いが、後に「イスラエル」という名誉ある名を受けた理由であり、イスラエル12部族を誕生させたのだから、彼の熱心は貴重であり、学ぶべきである。
3、一貫する主の御心
●イサクのエサウへのあいまいな態度、エサウの不信仰、リベカの策略、ラケルの不妊、姉レアの対抗意識、ラバンがヤコブをだましたこと、…これらすべてがイスラエル12部族誕生へのご計画であった。さらに、12人の子どもたちは次の出エジプト記へと続く。主のご計画は、こうして一人一人の思いを超えて、ふさわしい民を選び、訓練し、導かれるのである。
●私たち一人一人も、このような主のご計画の中で見いだされ、選ばれ、導かれてきた。
エペソ1章4節には、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とある。
私たちは聖書に名前が載るほどの者ではなく、小さい者に過ぎないが、こうして、約束の民として選び導かれていることを思えば、苦しみ、悲しみも、そして、伴侶や家族も、ご計画の中で与えられたものだと理解して感謝できる。だから、これからも、ヤコブのように、祝福を受けたいという熱い思いを持ちながら歩もうではないか。            
●祈り」大寺俊紀

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2009年5月27日 (水)

2009年5月第4週のメッセージ

「狭き門」
●聖書箇所 ルカ伝22-30節(P.143)
はじめに:今週は、創世記は先週と同じサラに関する箇所でしたので、旧約を休憩し、新約の個所をお話します。ルカ13章には4つのお話がありますが、今日は三つ目の「狭き門より入りなさい」という個所を取り上げます。
 この狭き門よりという言葉には信徒向きの意味と一般未信者向けの意味がありますが、どちらの場合も根本の意味は同じです。

一、狭い門と広い門
1、流れに沿う生き方=広い門
●いつの時代の、どのような支配体制の社会でも、ひとは、その流れの中で竿をささずに生きていくのが「賢い=要領の良い」生き方とされる。そのことを少し歴史的に振り返ってみたい。
○アダムとイヴ:サタンの誘惑を拒否して生きていたらどうだったか?おそらく何度も誘惑があり、それに乗った方が楽しそうだと感じたに違いない。
○洪水以前:人々は長寿で、楽園のような地球、楽しみと誘惑が一杯。何の恐れもなく謳歌して生きる中で、100%社会の流れの中で生きているだけで一切問題はないと思っていただろう。「怒りの裁き=洪水が来るぞ」というノア一家の警告は馬鹿馬鹿しいだけで、それは、「ロバが針の穴を通るほどの狭い門、愚かなこと」と感じたに違いない。その中で、ノア一家8人だけが言葉に従ったのは偉大な信仰だった。
○諸帝国の社会では:アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマなどの帝国下にあった人々は、①支配者階級での成功を目指すか、②非支配階級として一生を過ごすかのどちらかで、それも自らの所属は先に決まっており、99%選択の余地がない。数百年続く帝国の支配は、自由、平等、博愛などの精神そのものがあることを知らない。家畜に近い生き方も多かったと思える。与えられた社会の中で疑問も持たずに生きるだけ、流れに流されるだけ、それが当時の生き方であった。そんな社会の中で、アブラハムは「主を恐れる信仰」があるとして選ばれた。ここに偉大さがある。
○ローマ帝国下のクリスチャン:ご存じの通り、300年間の迫害があった。キリストの復活を信じるものは生きたままライオンに食べられる、子どもの目の前で、のこぎりで切り殺される。こんな刑が当然の社会。「努力して狭い門から入れ」という言葉には、このような、厳しい迫害下の聖徒を励ます目的が強かったと言える。
 また、ローマ帝政下では、皇帝崇拝が盛んであり、(他の帝国でも絶対的な支配者への崇拝は当然のこと)事業や商売をするには、組合=ギルドに加盟しなければならないが。そこでは会議の前後に偶像礼拝=偶像の前での礼拝と食事や飲酒が鉄則であり、それに喜んで参加することが広い門であり、キリスト教徒への落とし穴になった。
○中世の日本では、ある程度キリスト教が広がったが、激しい弾圧を受け、「隠れキリシタン」となる意外に道はなかった。「信仰を捨てれば、広い門を安心して歩める」、反対に信仰を守ることは「いのちがけの狭い門」であった。
○戦前の日本は、明治以来のキリスト教解禁が解けていたが、天皇制支配下に置かれ、戦争に協力し、先祖崇拝をし、同時に天皇万歳を叫ぶのが「広い門」であり、これらに従わずに信仰を守ることは「極端に厳しい狭き門」となっていた。

2、戦後の日本、現代の世界では
●戦後の日本はどうか、また、現代の世界ではどうか:
 日本や欧米の社会では、「進化論」が全盛であり、過去のキリスト教国も、「信仰を持たないことが進歩的な知識人、文化人」であり、持つことは大変狭い門となっている。かつての共産圏、社会主義圏では、信仰は国の敵、共産主義の敵であり、最も愚かな狭い門を選択することであった。現代の中国でも、共産党員になる、あるいは、最近では実業家になることが社会的な成功と一体であり、信仰は地上の人生の成功と完全に決別することであったが、にもかかわらず、多くのキリスト教徒が誕生している(約8千万人)。彼らは今の世の成功より、永遠のいのちの約束という「狭き門」を、勇気を持って選んでいる。
●現代の日本では、まず、進化論という最大の壁があり、次に先祖崇拝という二つ目の壁がある。「愚かなキリスト教信仰などを持たないで、学業と仕事だけを成功させ、高齢になれば先祖崇拝だけをしておけば、誰とも摩擦を経験しない」これが、「最も広い道、広い門」とされている。
●最近、公開されている話題の映画に「グラン・トリノ」というのがある。(クリント・イーストウッド監督)素晴らしい映画であるが、その中で、イーストウッドが教会の若い神父に反抗し「神学校出たての若造が、マニュアル通りの説教をし、老婆の手を取って永遠のいのちを語る・・・」と、毒づく言葉が印象的である。その厳しいことばは現代アメリカ人の本音であろう。フランス映画やイタリア映画の中でも、殆どの若者や知識人は、キリスト教は「時代遅れの歴史的遺物」と見るのが主流である。
 しかし、時代の主流はそうであっても、一部には最終的に教会の役割や救いに辿り着くものもある。グラン・トリノにしても、主人公は、「敵をせん滅する」という映画的見世物としての結末ではなく、神父の前に出て「懺悔」をし、その後、「キリストの道に歩む」が、映画の広告やパンフレットには、「こんな素晴らしい映画がなぜ造られたのか、信じられないほどだ。こんな結末をだれが想像し得たであろう、まさに奇想天外な結論」などとしか書かない。「聖書の福音と同じだ」と語る者はいないが、イーストウッドは狭き門に気づいて、腐敗堕落した社会には、これしかないという思いが与えられたのであろう。
3、人間の限界と罪に打たれること
●先日のGE展である画家とゆっくり話す機会があった。彼は今回久しぶりの出品であったが、画家としては「成功」しているらしい。(他に二名出品していない人がいたが、彼らも最近引っ張りだこで多忙とのこと。GEグループには他にも1,2名そういう方がいる。)話を聞くと、画廊と契約していて、ホテルや新築のビル=特に外資系の会社にまとめて数十点納品すると聞いた。150号、300号の作品もロビーなどに飾られるという。美術界でも身近な人に成功者がいるのに驚いたが、美術、音楽の世界などで著名になり、売れるのは1%もいない。
●日本の官僚社会では、ひとりの次官が誕生するために(次官には一人しかなれない)、ほぼ同世代の官僚は、全て途中で天下りをすると聞くが、官僚の場合は天下りをしても生涯高給で安泰である。
●しかし、芸術の世界は、成功者以外の人は天下りをするところがないから競争は熾烈となる。先日のJOINの上野有姉妹の証しでも、芸大生の醜い、自我むき出しの競争の中に自分も巻き込まれていたと気づき、「勝利者でなくても、そのまま、ありのままで良いですよ」というイエス様の言葉に打たれてクリスチャンになれたとあった。クラリネットの三戸久史さんも同じような証しをされていた。
●一般の勤労者、中小の企業家などにすれば、天下りも、生活安泰もなく、中庸の生活が送られればそれでよいというのが本音だと思うが、現実は、非正規雇用やリストラが多く、平均的人生を送ることすら危うくなっている。さらに、資産や名声などに関係なく、すべての人に共通する「限界」がある。それは、「老、病、死」
 現状の如何にかかわらず、全ての人に押し寄せるこれらの難問、また、これ以外にも子どもや伴侶、親などに課題が生じる。この時、何を考え、求め、自らと人間の限界に気づくかどうか。へりくだって救いを求めるかどうか、そこに鍵がある。それは、誰でもが歩む、広い門ではない。社会や時代の大勢に流されるだけで、よく考えないで歩んでは決してくぐることがない。時代や、風潮や、単なる先祖からの言い伝えではなく、創造者からのことば、救い主のことば、それは「狭き門」と感じるかもしれないが、これを聞いてみようとすることが大事である。

二、「努力して狭き門より」:信徒向きには

1、クリスチャンにとっての「努力と狭き門」
●クリスチャンにとって、「努力」と「狭き門より入れ」ということばには誤解を招く危険性がある。誤解をすると、努力したが入ることが出来ないという結果になることもある。
●最大の注目点は「狭き門」への誤解である。これを一般社会の常識で考えてはいけない。一般には、このことばは、受験戦争と同じで、「他人を蹴落としてでも自分を高めていき、成功者となる」という意味でしかない。
●先ほどのJOINの上野有姉妹の証しにもあった通り、競争社会での格闘が人間の心を蝕み、非情になり、愛を無くして自己実現に邁進する、この罪に気づき、180度転換することが救いへの最大の一歩なら、救われて後も同じ姿勢を守らなくてはいけない。
●競争による自己実現でなく、愛による歩みなら、「努力すること」も同じ愛の歩みの延長でないといけない。では、何故そのことが言われているのかというと、「へりくだって愛に歩む」ことが、人間にとって一番難しい歩みだからである。
●救われたときに、それまでの生き方を一挙に180度突如転換できる人もおられる。しかし、その方の場合でも、最初から完全とはいかない。そして、知識が少なく、祈りも少なく、聖霊に満たされていなければ、元の罪の顔が出てくることもある。今までは社会の中での成功を目指していたが、「今度はキリスト教会内での成功を目指す」という危険も残っており、教会内で人を裁くということも起こる。
*尚、教会の祈りで「毎年10人以上を」と祈るのは成功を目指すことではない。「後継者と30人以上というのは教会存続のカギ、条件」だからである。
●多くの方は、一挙に180度ではなく、徐々にいままでの歩みから、御霊に満たされた、キリストの似た歩みに変えられていく。何年、何十年という信仰生活の中で、常にへりくだり、教えに従い、奉仕などの実践も経験しながら変えられていくのである。「私はクリスチャンになったから、今後一切罪はなく完全です。」と言える人など一人もいない。
●このような意味で、「へりくだって、愛の中を歩み続ける」というクリスチャン生活は、社会との関係だけでなく、自分の中の罪との、長い信仰の戦いであり、「努力して」自分を低くして「狭い門」を通り続けることが大切なのである。
2、「不正を行う者たち」27節)「入れなくなる人たち」24節)
●24節では、入ろうにも入れなくなる人が多いとある。主人が戸を閉めてしまうと、それまで一緒に働いていた人々の中でも、締め出される人が多く、彼らの訴えは聞かれず、「不正を行う者たち」と言われている。27)
●信仰を持ち、同じ働きをしたはずの者でも除外されることがあるというのは厳しい。その理由は何か。不正の内容は書かれていない。聖書の他の個所では(Ⅰコリント3:12-15)「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。・・・」とあり、金、銀、宝石など、主の御心に沿って建てたものは焼かれず、木、草、わらなどの人間的な動機で働いたものは焼かれるとある。
救われる以前の、人間的な自己実現がそのまま引き継がれ、他を非難し、自己実現を図り、自己の栄光を求めるなら、それは広い門を通ること、不正の道であり、身をかがめて小さくなることではない。
3、「今、先頭のものがしんがりになる」30節)
●さらに、30節ではもう一つの戒めが語られる。それは、今、先頭の者でも、しんがりになる、というもので、このことも、広い門を通るという一般社会の常識とは正反対である。
一般社会では、普通なら重役や部長は課長以上の中から選ばれ、よほどの資質の問題や不祥事がないと、部課長を飛ばして係長を部長や重役にし、部課長を平社員にするということはなかろう。しかし、教会では、先輩は常に先を歩くわけではない。お互いに敬うことは大事であり、競争原理を持ち込むことはないが、今、先頭の者でもしんがりされる。先の者でも、自分を高くし、後の者を低く見て、支配しようとするなら、また、より良い賜物や奉仕を求めることなく、成長がなければ後になることも多い。これは、主がなさることである。

三、「狭き門」を入るための鍵(姿勢)
1、人間、自分の限界を知る
●ここで、もう一度、クリスチャンでない方、一般の方に呼びかけたい。
自分の働き、力、努力だけに頼り、創造主なる神の救いのご計画を求めることのない方々、どんなに力があり、努力しても、人間や自分には限界があり、また衰えと終わりがあることをしっかりと自覚してほしい。自分のしていることが完全でなく、的を外していること(罪という)、そして、最終的な解決、勝利がないことを知ってほしい。このことを認め、全能の主に自分を委ね、その救いを求めてほしいと願う。
2、自分のかたくなさを知る
●何度聞いても心を素直にしない。何の保証や約束もないのに、「皆が通っている広い門だから」ということで歩んでいる。疑い、反発し、逃げ、困ったときだけ不安になるが、安定するとすぐに忘れてしまい、先のばしにする。特に、日曜日は自分の自由時間であり、それを犠牲にして礼拝に参加することができない。
●自分は正しい、むしろ他の人と比べて優れている点が多いから「救い」は必要ない。このようなかたくなな心で背伸びをし、胸を張って自分を大きく見せようとする姿である。これでは、狭い門に入り、通ることが出来ない。
3、小さくなる
●茶室に入るときは、その小さな入口のために、全ての人は腰をかがめなくてはいけない。昔の武士も、腰の刀を差したままでは入れないからそれを解かなくてはいけなかった。このお茶の制度は、クリスチャンであった人が聖書の教えに沿って定めたものである。(ちなみに、お茶を飲む儀式も聖餐式に習っている)
 同じように、自らを高くする人は救いの道に入れない。たとえ地位が高くてビッグになり、勝ち組になっても、自らを大きくするものは狭い門を通れない。狭い門を通るために自分を主の前に小さくすること、腰をかがめ、力や権威を取り外し、自己主張をせず、主の前にへりくだって従うということ、そのことを一生努力して続けること、それが主の恵を受ける唯一の道である。
●信仰を持つ時だけでなく、その後も一生それを続け、心の底から謙虚になり、主を崇め、仕えていく努力をする、それが、「努力して狭き門から入る」ことである。
救われて尚、成功と、自己を大きく見せるための努力をするのでは、過去の罪の道と同じ。自分の栄光ではなく、主の栄光のためにへりくだって仕えていくこと、小さくなることは何もしないということではない。宣教のため、あるいは教会活動のため、賜物を受け、役割を与えられ、へりくだって忠実に果たしていく、そこに「努力」が必要となる。隣人愛にも努力が必要である。私たちはイエス様の十字架によって永遠の救いを受け、恵を受けた、そのことを信じ、心から感謝してはじめて出来る歩みである。    ●祈り」大寺俊紀

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2009年5月16日 (土)

2009年5月第3週のメッセージ

「サラとハガル」-約束の子と奴隷の子ー
●聖書箇所:創世記16章1-16節
2、待つことに信頼と信仰が試される
●16章は、創世記の中のアブラハムの記述の中でアブラハムの弱さを示している個所である。召命とカナン定住から10年、夫婦とも高齢になり、特に不妊のサラからは子孫は望めない時期に来ていた。財産の他に多くのしもべがいて、それを継ぐ後継者がほしい、その焦りがこのハガル、イシュマエル問題となった。
「後継者」という点では、私たちにも課題がある。あせって失敗しないように、祈り求めていきたい。
「約束を待てない」、ここで信仰が試され、問題を抱え込むこととなったのである。しかし、聖書を見ると、アブラハムとサラの失敗は繰り返されていない。次章19:1は99歳のアブラハムであり、24年間待った時に与えられる祝福の記述である。「過ちを繰り返さない」ここに、アブラハムの素晴らしさを見ることが出来る。
●一方、待つことが出来ず、それも繰り返して失敗した男がいる。サウル王である。
第1サムエル記13章はサウル王の失敗を教えている。(P.485)イスラエルが戦車3万、騎兵6千と多くの兵士のペリシテと敵対したとき、サウル王はサムエルが来ていけにえを捧げてくれることを待ち望んでいた。しかし、恐れからサウル王は、祭司でもないのに、自分でいけにえを捧げ、捧げ終わった時にサムエルが到着するということになった。これによってサウル王は預言者サムエルの怒りをかった。そして、「あなたの王国は立たない」と宣言される。(14)
 さらに、15章でも、サウル王はサウルのことばに従わず、敵のものを聖絶せずにおしんで自分のものとするという不従順の罪も犯すことをし、聖霊は取り去られ、悪霊が送られるということとなる。
3、既に与えられていると信じて待つ*マルコ11:24(P.90)
●サウル王は、数万の戦車や大軍を前にして恐れていた。しかも、「行く」といったサムエルが中々来ない。この時王は逃げ出したわけではなく、いけにえを捧げただけである・・・その状況を考えたら同情すべき点が多い。私たち一人一人もその弱さを考えれば、その場では同じことをしていたであろう。しかし、聖書は、このような失敗者のことを教訓として、いかなる困難に際しても信じて待つことを私たちに教えて下さっている。
*「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ11章24節(P.90)
●最後に、ガラテヤ書4章21-31節からアブラハムの約束の子イサクと、約束によらない子イシュマエルの違いについて見たい。
●ガラテヤ書の主題は律法やその中で特に「割礼」について、それは、約束によるもの、恵みではなく、肉によるもの、人間的な努力によるものとして、その価値の低さを教えている。そして、その例としてイサクとイシュマエルが取り上げられている。
 イサクは、約束による子=御霊によって生まれたものであり、イシュマエルは肉(人間的な思い、努力)によって生まれていて、肉による子は「奴隷の子」であり、約束による子は自由の子、天のエルサレムにつながる子=相続人である。4:30にある通り、奴隷の女と子は相続人にはなれない。ガラテヤ書ではイシュマエルやハガルへの別な約束は書かれていないが、ここで強調されていることは約束の確かさと素晴らしさである。

●私たちは、アブラハムの時代と違い、約束を確かなものとして多くの証言を得ている。キリストの贖いからすでに2000年経過している。確かなものとして確立された約束を受けている。喜び、讃えて歩もうではないか。」
大寺俊紀

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2009年5月 9日 (土)

2009年5月第2週のメッセージ

「洪水の後」-人類の始まりと歴史ー~創世記シリーズ②

●聖書箇所:創世記9章18-29節
「はじめに:今週は、創世記シリーズの二回目で洪水後の、主が「もはや大洪水で地を滅ぼすことはしない」という契約を宣言する箇所と、ノアの子どもたちのことが書かれている個所です。前回、2章の説教で、人の創造が書かれていた個所を省略していましたので、アダムの創造、イヴの創造から始めて、人間の歴史の始まりを整理して考えたいと思います。

一、ひとの創造
1、「われわれのかたち」1章26節)
●最初に、1章26節を見ましょう。光、水、陸地、植物、太陽と月、魚、鳥までが5日目までの創造で、地上の生き物=動物たちとひとの創造が6日目です。この1章の記述は今回詳しく話しませんが、1,2か所だけ注意して見ますと、まず、最初に「光」があり、4日目に「太陽、月、星」があるのは理解できない人が多いようです。15年前に見たある書では、「1日目の「光」は弱い光で、4日目に、現在のような核融合の強い光を出す太陽になったのだろう」とありました。しかし、最近では、1日目の光は、イエス様が光られたのだろうとの解釈が中心です。その理由は、1日目には地球の自転がこれから始まるときですから、自転によってもたらされる地場(バリヤ)が出来ていませんし、二日目にできる大空の上の水もありませんから、太陽の有害光線が地上に降り注ぐのは危険で、生命が存在できないからです。それで、太陽などは、それらのバリヤが出来た後の4日目に創造されたとなります。
では、1章3節にある「1日目の光」は何かというと、「無公害の光のイエス様ご自身の光」と考えるのが妥当でしょう。主イエスは、ある時に弟子たち数人を連れて山に登り、顔は太陽のように輝き、衣も光っています(マルコ9:2-8)。また、黙示録22章5節の未来の記述では、太陽や月はなくなり、父と子羊が都の明かりであると書かれているからです。
●次に、植物が出来て二日目に鳥や魚が出来たことも重要です。植物は、花が咲いて4日以内に鳥や昆虫によって受粉しないと実をならせません。ですから、植物だけの地球が何万年、何億年も続き、その後動物が出来たという進化論の説はありえないことです。
●26節の「われわれのかたち」という言葉ですが、それは、福音主義神学の殆どが言うとおり、「創造主なる神の性質や能力などが人にも与えられている」ということです。それは、信仰、愛、創造性、社会性などです。知性なども、人間のそれは、他の動物とは比較できません。この脳力や性質を用いて、なすべき役割が「地のすべてのものを支配せよ」(26,28節)ということですが、それは、「支配者のように自由に振舞え」という意味ではなく、2章15節にある通り、「地を耕し、そこを守る」という意味です。
○勿論、父なる神は形がなく、人には見えない方です。しかし、主がご自身を示し、人と交わるときにはイエス様として地上に来られます。御使いもしばしば人のかたちをとられます。つまり、主が人と交わるときのかたちをあらかじめ決められ、来られた際に私たちと交わることが出来るようにと、同じ形に我々を造られたのです。ひとのかたち、それは、人として来られる時のイエス様の形であり、あらゆる被造物の中で最も美しく、力を発揮するにふさわしく、理にかなったものなのです。
2、「土地のちり」からアダムが
●次に、2章7節にある「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生き物となった。」という個所を見ましょう。
 20年ほど前に、ある科学者に聖書のことで意見を求めたことがあります。当時、私はクリスチャンになったばかりで、聖書全体、特に創世記について徹底的に調べ、納得と確信を得たいと願っていました。その方は、普段は大変紳士的な方で、混声合唱団にも入ってマタイ受難伝なども歌う方ですから、聖書についての知識もありました。
 しかし、創世記について改めて見解を伺いますと、その方は普段の冷静さを失って「罵詈雑言」の手紙をくれました。彼は、この2章7節の「ちり」という言葉を文字通り解釈し、次のように書かれました。・・・「聖書は、神は人をちりで造ったという。では、粘土の中にどれほどの元素や化学物質が含まれているというのか?粘土で造り、殆ど焼かなかったら白人になり、少し焼いたら黄色人種となり、よく焼いたものが黒人になったとでもいうのかね!?」と。
 実は、聖書は、3,4千年前から、「地球はちりからできている」と書き、近代科学も、最近になって、地球はちり(塵)からできていることを認めている。宇宙のちりとは、全ての元素を含むものであり、人間も、その他の被造物も全て、この「塵」に含まれる「元素」によって、それらが組み合わされて出来ているのです。聖書にある言葉の意味をよく考えないで文字通りに受け取ると理解できない、一つの典型的な例です。
3、「アダムのあばら骨」からイヴが 
●最初の女性イヴの誕生も同じような面白さがあります。多くの進化論者は、2章21節のイヴがアダムのあばら骨から造られた事に怒りを持って反論します。残念ながら、これまでの多くのクリスチャン、神学者もこの箇所が理解できず、困惑してきました。
●聖書を批判する人は、「イヴがアダムのあばら骨から造られたのなら、男性のあばら骨は、女性よりも一本少ないと言うのかね」などと反論したそうです。しかし、あばら骨というのは、最も細胞の増殖が盛んな部位だそうです。従って、現代なくなったからだの部分を再生させる整形手術の際は、あばら骨を使うことが多いとのことです。実は、それを体験された学者がいます。オーストラリアの科学者で、進化論の立場に立っていたある方が、ひどい交通事故で、自動車は大破し、顔の半分が吹っ飛んだそうです。彼は数百回の手術を受けましたが、現在、顔は元通り「丸く」復元しています。(眼だけは義眼)その手術で、顔の復元に使われたのは、彼自身のあばら骨だったそうです。その後、彼は、進化論の間違いに気づき、オーストラリアの創造論科学者の団体の代表になっています。
●このように、聖書は、それを疑う人には「躓きやすいように」、そして「皮肉をこめて」記述しています。他の例ですが、「動物、人間はアメーバ―から進化した」という進化論をあざ笑うように。造られた生き物の最初は「くじら」です。(1章21節)
 また、何度も聞いている通り、最初の生物と言われるアメーバ―の足の部分には、近代科学の粋を集めたジェットエンジンと同じ構造が発見されていますから、どんな生き物も、原始的な形から進化したということはこの一事をもって完全に否定されます。

二、「象徴、隠喩」と「文字通り」
1、聖書理解に必要なこと
●聖書の記述を理解する際に必要なことは、特に創世記や、黙示録では、隠喩や象徴も使われているということです。ですから、大事なことは①は文字通り解釈する、②は象徴的に解釈する、③は隠喩=深い意味を読み取ることで、これらを組み合わせて理解することが大事です。勿論、④として、聖書全体から解釈することも常に大事です。
○1章3節の一日目の光は④になりますが、聖書を信じる科学者の説明も不可欠です。
○2章21節の「あばら骨からのイヴの誕生」は、①と③です。この場合、もし③だけですと、「愛情の宿る所の骨」であるという解釈だけになります。これはこれで結構ですが、文字通りにも受け取ることが可能です。
○2章7節の「土地のちりで人が創造された」ということは①ですが、光同様、元素であるとの理解が必要です。
2、「善悪の知識の木の実」と「いのちの木の実」
●2章17節の「善悪の知識の木」と「いのちの木の実」はどうでしょうか?ここでは、議論があるようです。特に善悪の木の実は①文字通りでよいという見解もありますが、福音主義では、②と③の象徴的な意味、隠喩(深い意味)と受け取ります。最大の理由は、3章5節の「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」という言葉にあります。「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになる」というのは、自分が神のようになり、自分で善悪を判断して生きるという「生き方」を示しているからです。
その木の実が、生命科学的に何かの効果があるとか、細胞学的に死に向かわないとかいう話ではなく、生き方を示しているから象徴的、隠喩的に解釈するわけです。
●私たちの滅ぶべきからだは、イエス様の再論後、イエス様から瞬く間に復活の体に変えられます。パウロがコリントの手紙に書いているように、その時パンや木の実が配られるというわけではありません。
○但し、パンの奇跡の時に実際にパンが配られて、人々が満足したように、「新天新地」では、すでに永遠のいのちの体が与えられた後でありますが、「いのちの川のほとりの木の実=いのちの木の実」も食べることが出来る、すなわち文字通りにいのちの木の実も食べるということも信じてよいと思います。
○ですから、私たちは、「全て文字通りに解釈しないといけない」「いや全て象徴的解釈でないといけない」と、あまり厳格で対立的な解釈をせず、幅広く、おおらかに受け止めることが大事なのではないかと思います。
3、「善悪の知識の木の実」と死
●次に、2章17節にある「善悪の知識の木の実を食べると死ぬ」という言葉の意味です。これも、①文字通りと③隠喩の深い意味の両方があります。
 聖書には、「死」という言葉は「創造主なる神とのつながりが切れる」という意味があり、結果として「肉体の死=文字通りの死」が与えられます。イエス様を信じない人が「死んでいる」というのは、繋がりのことであり、それは、肉体の死―裁きとしての死に繋がります。しかし、イエス様の救いを信じると、「繋がりが回復され」、結果としては、「肉体の死」は残っていますが、罪が解決されていますから、裁きとしての死ではなく、すぐに天に挙げられ、後に復活の体も与えられます。
アダムが2章17節で、食べると「必ず死ぬ」と言われたのは、「繋がりがすぐに絶たれること」=霊的な死であり、その結果、後に肉体も死ぬようになりました。アダムは全部で930年生きていますから、肉体は即死ではありませんでした。しかし、確実に死が来ました。
●アダムによって、全ての人に死が入ったとありますが、私たちも、善悪の木の実(何かの木の実)を食べている訳ではありません。しかし、善悪を自分で判断して生きてきました。それが善悪の木の実を食べてきたということです。しかし、イエス様が私たちを救うために地上に来られ、身代りに罪の罰を受けて下さったので、今は信じるだけで霊の死=繋がりが回復され、肉体の死も解決されます。

三、ノアの息子たち
1、洪水の真実性*6-8章)
●ノアの3人の息子に入る前に、4章から8章を少し説明しましょう。
 4章には、アダムとイヴの子どもたちのことが書かれています。アベルの死は省略しますが、4章17節ではカインは「町を建てていた」とあります。その子孫のヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者となっていますが(20節)、カイン自身も家畜を飼っています。
 また、ヤバルの弟ユバルは立琴と笛を=音楽を始めています。22節では、トバル・カインは青銅と鉄あらゆる用具の鍛冶屋になっています。つまり、人類は、誕生当初から高度な文化的生活をしているわけで、類人猿のような時代があったわけではありません。
また、4章26節では、「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、アダムとイヴの最初の二人の子(カインとアベル)のあとに与えられたセツの家系のものが「神の子の家系」として導かれています。
●ですから、6章2節(P.8)にある「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」ということばは、「セツ」の家系の子孫が、カインの子孫たちと交わってしまい堕落したということを教えており、このことが主の最大の怒りを買っています。つまり、「ノアの洪水の直接の動機」がこれです。
 ここで、主は、「人が肉にすぎない」からと言って、人間の年齢を120年までにしようと言われたことが重大です。
●以前、ある教団の聖書辞典を購入して調べたことがありますが、それによりますと、5章にある900歳前後という長寿の個所では、「人体の構造上あり得ないことである」と全面否定していました。この辞典は、聖書を疑い、人間的、進化論的に解釈する教派のものですが、聖書のことば、表現を今の常識から判断して否定しています。「900年も生きたということは理由は何か、どういう状態ならそうありえたか」、などと信仰によって求めることがありません。5章の次の6章3節には、「120年にしよう」という言葉があることから見て、5章の記述は、愚かな神話や非科学的なこととして一蹴するのは危険であると、なぜ考えなかったのかと残念でなりません。聖書は、今は120歳が限度になっていることを書くということは、「洪水以前の地球は今とは違ったのだろう」ということを想像することが大事です。真実を知りたいという願いがあれば、真実を理解する知恵が与えられます。しかし、「聖書は愚かなこと、間違いを書いている」という前提を持てば、到底真理を知ることはできないでしょう。
2、3人の息子から全世界の民が分かれ出た
●最後、少しになりましたが、ノアの子どもたちのことを見ます。9章19節には、彼らから全世界の民が出たとありますが、以前安井伝道師の説明にもあった通り、3人の息子から今の人類の人口に達することは充分可能です。進化論では、人類は、それぞれ別な動物から進化したという理論となり、オーストラリアのアポリジニに対する迫害(彼らは、人間と認められなかったので虐殺された)やナチスドイツのゲルマン民族優越の思想やユダヤ人虐殺などの数々の悲劇を生みました。しかし、人類はみな、本当はノア兄弟の子孫です。
●次の10章には、彼らの子孫の分布、系図が記されていますが、10章6節からのハムの子孫はエチオピア、エジプトなどアフリカ人(黒人)となっています。また、15節にあるシドン、ヘテ、エブス、エモリ人など、中東でのもっと罪深い民として裁かれる民ともなっています。
次に、2-5節のヤパテの子孫は全ヨーロッパに分布しており、彼らの子孫はアジア、南北アメリカ、カナダ、オーストラリアなどに広がっています。つまり、欧米の民も、アジア、南北アメリカの先住民も皆、ヤパテの子孫、兄弟なのです。
 ラオスやカンボジアに少数民族がたくさんいますが、その中の一つに特別クリスチャンの多い民族(カレン族?)があります。彼らの話では、ある時ヨーロッパから宣教師がその民族のところに来たそうですが、その後民族挙げてクリスチャンになったそうですが、それには次のような経緯があったそうです。その民族では、大昔からある宗教的な戒め(偶像礼拝をしない)が伝承されていたそうです。同時に、次のような伝承があり、それを堅く守っていたそうです。それは、「私たちの先祖は、乱暴者で、先祖からの救い主に関する教えを無くしてしまった。しかし、後の日には、必ず、その兄弟から元の正しい教えが伝えられるから、その時は民族挙げてそれに従うように」というものでした。そして、キリスト教宣教師が来て福音を話したときに、「これこそが、数千年間待っていたものです!」とすぐに理解して、民族挙げてクリスチャンになったというのである。これは、アジア人とヨーロッパ人が同じ兄弟から出たということの一つの証です。
●また、セムの子孫は、アラム、ウツなどの名前が知られていますが、中東地域に住んだ民です。今のイスラエル人、中東の諸民族もセムの子孫、特別宗教的な民族です。
3、ヤパテは広がる*27)
●9章21-29節には、父ノアと3人の兄弟のエピソードがあるが、ここで、ハムのやり方に父は怒り、ハムの子孫カナンを呪っている。そして、ヤパテは広がるとの預言をする。その後の4000年の歴史はこれを裏付けている。先ほどの説明にもあった通り、ヤパテは全世界に広がっている。キリスト教もヤパテの子孫を中心に広がっている。しかし、現代では、アフリカにも教会が広がっているので大変喜ばしい。主の大いなる恵みを褒め称えたい。

*最後に、使途17:16(P.264)の次のことばを読んで終わります。
「神(創造主)は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。・・・」●祈り」
大寺俊紀

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2009年5月 2日 (土)

2009年5月第1週のメッセージ

「創世の地球の素晴らしさ」
●聖書箇所:創世記2章1-15節
一、雨の降らない地球
1、「地上に雨を降らせず」という表現
●進化論の影響を受けて生きていると、すべて「今、目に見えること」「今の科学の常識」が絶対に正しいと思ってしまいます。そして、「科学」ということを考えた際は、「実験科学」での証明が全てと信じてしまうところがあります。しかし、それでは、信仰が持てませんし、持つとしても人間的な解釈をした神学になってしまいます。
①例をあげると、私たちは、「雨が降らない地球」はあり得ないと思っています。雨が降らなければ、干ばつとなって植物、そして動物、さらに人類が生きていけないと信じています。
②次に、「川」というものは、雨水が山から染み出て、源流となり、やがて支流が集まって大河になり、海に注ぐことを見ていますから、それ以外の現象があるとは、想像すらできません。ですから、2章の「雨が降らないのに、四つの川がエデンの園から出て流れていた」という記述は、まるで、夢物語のような馬鹿げた話になります。
③さらに、聖書は、7節で、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とか、17節の「善悪の知識の木」、21節の「アダムのあばら骨からイヴが造られた」と続きますから、まず99%の人は、聖書を馬鹿馬鹿しい「おとぎ話」と捉えるでしょう。
●しかし、5節の「地上に雨を降らせず」という言葉からわかるように、雨が降ることも、降らないことも、「自然現象」である以前に、創造主の権威によって定められているということ、そこに注目しなくてはなりません。
●ですから、私たちクリスチャン、教会にとっては、聖書の正しい説明やクリスチャン科学者の研究がとても大事になります。これらがなければ、創世記に対しては「目をつぶって何も言わない=無視をする」か、逃げるか、あるいは聖書の真実性を疑って、「聖書は間違いだらけの書」だとの間違った神学に陥ることになります。
2、雨のない地球と川
●丁度60歳の時に、私は絵の生徒で山好きな人の紹介で、約10人で立山高原に行きました。それは、私にとっては、次のような貴重な経験をする機会でした。
8月5日から3泊4日で海抜2100Mの山のホテルに泊まりましたが、二日間は、毎日猛烈な霧で、午前中の数時間以外はホテルから出ることも出来ない程でした。ところが、三日目の朝は快晴、ホテルの周辺は雲一つない360度パノラマ、立山や槍ケ岳などの見事な山々に感動したのですが、同時に、高原の植物は、幅数キロ以上、長さ20キロ以上という大規模なお花畑でした。殆ど一本の雑草もなく、全ての花が咲き誇っていました。あまりにも綺麗で、同行したある大人の方は、「先生、このお花畑はだれが植えたのですか?」と真面目に聞いていたほどです。全員が「ここは天国みたいだ」と言っていました。
●その時、気づいたのですが、毎朝雨は一滴も降っていないのにお花畑がびっしょり濡れていたことです。それが、創世の雨の降らない地球の姿でした。つまり、雨が降らなくても、霧が立ち込めると植物は充分育つのです。
●しかし、「雨が降らなければ、川は出来ないのではないか」という疑問が生じます。確かに、人類はチグリス、ユーフラテス、黄河、ナイル川などの大きい河の周辺に古代文明の華を咲かせました。チグリス、ユーフラテスは14節にも登場します。しかし、それらのことを考えますと、何れも大河の氾濫によって、下流にデルタ地帯が生まれ、その洪水がもたらした肥沃な土壌で農耕が発達したという歴史があります。しかし、この「歴史」は、聖書が教えるエデンの園時代のものとは違います。それらの古代文明はエデンの園時代の後のことです。
3、雨の功罪
●今、私たちが見る世界は雨が必須、というより絶対条件であり、雨なくして地球環境と生命保持は成り立ちません。しかし、雨というのは「功罪」があります。立山高原のように毎朝霧でびしょぬれになれば雨が必要ありません。
 そもそも、雨は何故降るのか、そこから考えるとわかります。雨は前線によって降ってきます。高気圧と低気圧が生じ、それがぶつかって前線が生じ、降雨の恵みをもたらしますが、同時に、雨は「洪水」をも副産物として被害をもたらします。また、時々、前線が発達して台風やハリケーン、サイクロンなどももたらし、多くの被害を与えます。
●ですから、霧が立ち込めて、降雨の必要がなく、さらに、10節にある通り、地球の中心から湧き水が出て、それが地球全体に潤すとなれば、完全に安全で、豊かな恵みをもたらします。10節には、4つの水源を教えていますが、そこに、現存するチグリス、ユーフラテスの名もあるということは、中東にエデンの園、創世の地球の中心があったということです。

二、1章6,7節の大空の上の水
1、なぜ恐竜がいたことを考えてみれば・・・
●私たちは、今目にしていることが全てという「前提」や「常識」を疑ってみることも必要です。その際、かつての地球には恐竜がいたということも考えないといけないでしょう。「恐竜」、これが、今の地球に存在できるでしょうか?ジェラシックパークの映画のように、DNAさえ手に入れば、クローン恐竜が再生し、今の地球でも生きることが可能でしょうか?
●恐竜の大きさを考えてみましょう。大きいものは40―50メートルでした。大きい翼をもつものもいました。当時は、5メートルの怪鳥、羽が1メートルのトンボ、アンモナイトも1メートルの大きさでした。つまり、あらゆる動植物が巨大でした。勿論、食料の植物も大きかったでしょう。しかし、最も大事なことは、「気圧」が高くないといけないことです。クリスチャンの科学者たちは、創世の地球は今の倍の気圧(2気圧)だったと推測しています。そうでないと、巨大な動物たちが行動できないし、空も飛べないからです。では、その気圧に関する聖書記述があるでしょうか?あります、それが、1章6,7節です。
●1章6節の「水の区別」は、今私たちが肉眼で見ている「海の水と空の雲」のことではありません。「大空の上の水」とは、地球上空の高温帯(人工衛星が再突入する時に燃え尽きる危険性のある地帯)に水を「水蒸気」として挙げたということであろうと言われています。この解釈は実にすばらしい恵みを教えるものとなります。
●今の地球にも、オゾン層やバン・アレン帯と呼ばれるバリヤがあり、地球上の生命を守っています。しかし、これらだけでは、不十分です。ノアの洪水後、人のいのちを120年にしようと主が言われたのは、洪水によって「大空の上の水」が無くなり、地上に紫外線などが降り注ぐように悪化したということです。生命科学の学者や遺伝子を研究されている学者たちは、「地球に紫外線や様々な有害光線が降り注がなければ、細胞の劣化が減り、人はもっと長生きになるだろう」と言います。
●つまり、創世の二日目の「大空の水」が地球の上空に分厚い水蒸気の層を造り、地球の気圧を二気圧(?)にし、地球全体を同じ気圧とし、気圧の差(高気圧、地気圧)がないために低気圧、高気圧、前線が発生せず、雨を降らせず=嵐もなく、地球全体が温室のようになり、植物は大きく、動物も大きい、恐竜も走ったり飛んだりできる、そして、有害光線がほとんどないために人の寿命も長い、という環境を作ったのだと言えます。
●創世記5章には、創世当時の人の寿命が千年近いことを教えています。アダムの罪によって「死が入った」にもかかわらず、洪水までの人は今の10倍でした。創世の地球では、大空の上の水があったために、細胞が老化しないというエデンの園の恵みが続いていたのです。2章5節の「神である主が地上に雨を降らせず」というのはこれほど大切な恵みを教えています。
●川も恵みです。それは決して氾濫することはない川です。エデンの園から湧き出る水です。地球全土に平均して流れていたでしょう。洪水以前の地球は、陸地が一つ、海も一つでした。まるで、公園のように設計されて、完ぺきに創造されたのが創世の地球だったのです。この川についてはエゼキエル書47章(P.1442)にも詳細に記されています。
2、未来につながる希望です
●創世の地球が、聖書記述どおりだったということは、聖書の予言も100%完全に成就するという確信を私たちに与えて下さいます。
①イエス様の再臨の時に「天変地異」が生じます。それらは全て、主の御手にあってなされることが当然となります。地球環境がノアの洪水で「激変」して今のように変わったのであり、元々は完全な状態の地球が創造されていたということが確信できます。今、私たちが見ている地球は創世の地球とは全く違うのです。また、創世の地球が素晴らしかったということは、それは、そのような素晴らしい世界が、再創造されることに繋がります。
②旧約聖書、新約聖書の多くが、主の再臨後に「千年王国」がもたらされ、「荒野に水がわき出し」(35章)「人の寿命は木のようになる」、「100歳で死ぬものは呪われたものとされる」とあります。(イザヤ65章などP.1233)その再生された地球では、動物の肉食もなくなっていますから、(25節)創世の地球には「肉食」すらなかったという創世記1章29,30節の記述の真実性が確かなものとなります。
③さらに、死のない永遠の希望、黙示録などの未来の永遠の世界も、創世記の記述から見て、本来の姿であることを確信させるものです。
 ということは、聖書の正しい解釈と確信は、本当に大事なことです。聖書の全てを真実のものとして受け止めることが出来ます。
3、「エデンの園=いのちの川のそばのいのちの木」
 前のページで、「川も恵みです」と書きましたが、エゼキエル書47章12節をご覧ください。(P.1443)
●まず、水は1節では「神殿の敷居の下、祭壇の南、宮の右側の下」から出ています。最初は、僅かな水量ですが、進むに従って水量は増え、3節では「足首」まで、4節では「膝」に達し、5節では「渡ることが出来ない川」となっています。つまり、今、私たちが見る川と逆転しているのです。また、「この川の入る所では、すべてのものが生きる」と記されています。つまり、いのちの水の川です。さらに、7節では、川の両側に非常に多くの「木」があり、12節では、「あらゆる果樹」が成長し、「その葉は枯れず、実も絶えず、毎月新しい実をつける」ともあります。これは、今の天地が滅ぼされた後、新しく作られる世界(新天新地)やその前の「千年王国」と呼ばれる、再生されていく地球の姿です。
●今度は黙示録22章(P.501)を開きましょう。これは、明らかに、未来の新天新地です。
 1節では、はっきりと「いのちの水の川」が「神と子羊の御座」から出てとあり、エゼキエル書と一致します。2節の川の両岸に立つ「いのちの木」も、エゼキエル書と同じく、12種の実がなり、毎月実り、その木は諸国の民をいやしたとあります。
 さらに22節では、「いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を入って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。
●この「いのちの木」が創世記2章の園の中心にあったはずです。2章16節では、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」とありましたから、「いのちの木の実」も含まれていたはずです。食べてはならない唯一の木は、17節の「善悪の知識の木」でしたから。
 そして、3章にある通り、アダムとイヴは禁制の善悪の知識の実を食べ、罰として「死」を与えられました。3章24節(P.5)では、アダムとイヴがエデンの園を追放されたのち、罪をもった人が、自分で「いのちの木の実」を食べないようにと、いのちの木の実は守られ、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれています。
イエス・キリストによって救われた者は、終わりの時に、この「いのちの木の実」を与えられます。永遠のいのちに至るものです。キリストにある「永遠のいのち」は、創世記、旧約預言、そして、イエス様のことば、新約の書簡、黙示録、全て一貫して、いのちの木、いのちの川として表現されています。
4、「創造のわざを休まれた」という言葉の意味
●最後に、1-3節の「創造のわざを休まれた」という言葉に注目しましょう。天地の万象は6日目に完成し、7日目には、「なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたわざを休まれた」とあります。
●完成していながら、「終えられた」とは言わずに、「休まれた」と言われるのは、その後の「人間の罪による堕落」を見通してのことと思われます。一度完成していながら、堕落によって罪が入り、死が入る、それは、万物は滅びていくという「エントロピーの法則が入る」ということであり、「永遠」の法則が一時棚上げされ、裁きと赦しを経て「再創造」のわざが必要となるということです。再創造のわざがまた必要とされる、「それまで休まれる」から、このように書かれています。
●イエス・キリストが来られたニ千年前、それは、「終わりの時」と言われます。それは、長い旧約の時代を経て、ようやく迎える救いの時、福音の時代であり、最後の終わりの時(終末)の始まりとなります。私たちは、このような終わりの時に臨んでいるのです。創世記にある素晴らしい創世の世界が、私たちに再び与えられる時を前にしています。この恵みを感謝して、歩もうではありませんか。」大寺俊紀

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