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2009年3月14日 (土)

2009年3月第3週のメッセージ

すばらしい生命、どこから来たのか?
●聖書箇所:ヘブル書13:3
「アメリカに歴代大統領の顔が並んでいる崖があります。これが偶然にできるかと尋ねると、だれもが何億年かけても無理だと言います。デザイナーがいたはずだと言うのです。本物の人間はそれよりはるかに複雑でよくできています。どう考えても勝手にできるはずがないでしょう。
ところが今日では、生命の起源は進化で証明されているとだれもが信じています。膨大な年代をかけて偶然が積み重なって無生物から人間に至ったというのです。いったいどちらが本当でしょうか?私たちはどこから来たのでしょうか?
今年はダーウィンが「種の起源」を出版してから150周年に当たります。ダーウィンはガラパゴス諸島でフィンチやイグアナが島ごとに変化しているのを見て、時間があれば動物は環境に合わせて進化(別の種類に変化)するという説を打ち立てたのです。世界中が衝撃を受けました。私たちの起源、生命の起源に特別な意思も知性もデザインも要らない、すなわち創造主が不要であるとしたのです。20世紀には進化論が全ての思考の土台となり、あたかも検証された科学であるかのように信じられ、教育されています。
ところが、最近になって、ガラパゴス諸島の動物が詳しく調査されましたが、島々の動物の特徴は平均的雑種から2~3代で現れることがわかっています。すなわち長い時間かけて進化したのではなく、同種類の中のバラエティであったわけです。ダーウィンはただこれを見ていたに過ぎず、進化とは何の関係もありませんでした。
また、ダーウィンは最初の生命がどのように発生したかについては触れませんでした。しかし、現代では最も単純と考えられていたバクテリアでさえ、目を回すほど複雑な構造を持っています。あまり知られていませんが、今では、かつて進化の証拠として主張されたものが放棄され、ほとんど残っていません。生命の起源は大きな謎として残されたままです。

しかし、聖書は変わることなく、万物の起源についてはっきり教えています。」
ヘブル人への手紙11章3節(冒頭に記載)
ヨハネの福音書1:1~3
創世記1章
など。
         

http://b-c.jp http://gophertree.jp 記)安井 亨 (バイブル&クリエーション)

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2009年3月 8日 (日)

2009年3月第2週のメッセージ

「律法を全うする愛」
●聖書箇所:ローマ署13章8-14節
三、「愛」への挑戦*12:9-21)
1,祈りなくしては不可能*12:12) 
●13章の前に、12節後半から、「愛することに挑戦する」ことを学びたい。
●「挑戦する」とあるのは、愛することは、人間の本性、肉の思いからすると、大変困難を伴うことだからである。具体的に12章を見よう。
 後半の9節に入る前に、1節からを少し見ると、まず、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とある。「愛すること」は自身を備えものとして捧げる霊的な礼拝なのであるから、「心の一新によって自分を変える」2)ことが必要である。また、「思いあがってはいけない」(3)し、「慎み深い考え方をすること」3)も必定である。つまり、「愛には偽りがあっては」いけない。9)
 更に、10-12節では心構えが続くが、「互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思い、勤勉で、霊に燃え、望みを抱いて喜び、患難に耐えて」いくことなどが教えられているが、それらはみな「祈り」なくしてなし得ないことである。
 もし、祈りがなければ、不安や怒り、絶望感、いらだちなどが襲い、到底平安をもって愛することはできない。
2,悪に報いるな*14-21) 
●次に、14-21節では、「悪に報いるな」という言葉で集約されているが、自分に対して「迫害する者」「自分への悪」「復讐心、怒り」「敵」などのことばが続く。
 ということは、私たちが愛すべき人は、「自分を愛してくれる人」「自分を大切にしてくれる人」だけではいけないということである。世間一般での愛は、自分にとって大事な人や、自分を愛する人を愛し、敵対する人や迫害する人を愛することはあり得ない。自分を攻撃する者へは、呪いやまじない,中傷など、どんな手を使ってでも反撃したいのが普通である。しかし、イエス様の教える愛は、このように敵対する人への愛を持ちなさいというものである。
 仮に「復讐したい」と思うほどのことがあっても、怒りを気持ちはイエス様に委ね、イエス様が復讐して下さるから、自分はその気持ちを「棚上げする」ことが大事である。さらに、20節では、復讐心を捨てるだけではなく、敵が飢えたら、彼に食べさせなさい、乾いたら飲ませなさいとも言われる。これも祈りなくして出来ることではない。また、イエス様の愛を知ることなく出来ることではない。
●対立や行き違い、意見の相違、ときには実際に警察に不当に訴えられたという経験のある方を知っているが、その方は、聖書のことばを守り、自分を訴える者、自分と敵対していた者のために祈ることが出来るようになってきた。すると、その方の苦しみや症状も回復し、永年の対立も解決していき、問題が解決していった。つまり、主にゆだねて祈っていくときに、主ご自身が解決して下さるのである。
●21節にあるが、「悪」に対して悪で対抗してはいけない。悪に対しては、「善をもって」打ち勝たないといけない。善をもって祈るとき、相手のためにも祈るとき、主は勝利を与えて下さるのである。
●21節にあるが、「悪」に対して悪で対抗せず、悪に対しては「善」を持って打ち勝たなければいけない。善を持って接し,相手のために祈るとき,主は勝利を与えて下さるのである。
●ある方:
別な方:
 ある若い教会指導者:
●愛とは忍耐そのものである。怒りを持つことなく,「善」を持って打ち勝たなければいけない。一切を主に委ねて待ち続けるとき,主の御心がなされる。教会で対立や抗争、牧師批判、信徒への裁きなどが生じるとき,「怒りや裁き」などを持ち、「主に代わって裁く」という態度を取ることになる。悪や罪に対して自分が報いようとする高慢の罪である。
●私たちは、周囲の人の罪、あるいは、不従順などによって,私たちの愛や従順が試されていることを知り。つまずかないように気をつけよう。
3,光の武具が必要*13:12-14) 
●最後に、パウロは「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか・・・」と語り、具体的に肉の欲に従う歩みではなく、「昼間らしい,正しい生き方を」勧めている が、それは、肉の欲に心を奪われる生活ではなく、イエス・キリストを着る=愛を身につける=生活である。それが、光の武具となり、勝利をもたらすのである。」大寺俊紀

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