« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月31日 (土)

2009年2月第1週のメッセージ

「偽善者のようであってはいけません」
●聖書箇所:マタイ6章1-4節
3)クリスチャンにとっての「偽善」とは?
●パウロは若きユダヤ教の指導者で、将来は大祭司にもなったかも知れないほどの人物であった。しかし、彼は、自分の経歴、働き、地位などは、全て「ちりやあくた」だと思っている。(ピリピ3:8)
●クリスチャンもこれと同じ思いを持つことが大事である。勿論、これまでの全てが、何の価値もないということではない。例えば、ある著名な学者がクリスチャンになったとして、(このようなことはよく聞く実話であるが)、それまでの研究には1%も価値がないかというとそうではない。それまでの努力してきた研究は、クリスチャンにされる課程としての意味があり、それ自体にも意味、価値がある。しかし、次のような思いが必要である。~つまり、「もし、私が救われていなかったら、そのままなら、過去の栄誉も研究も、永遠のいのちにとっては無価値となったであろう」という認識、評価である。しかし、、パウロの場合も、何の価値もないという過去の知識は、今後の使途としての働きの中で生かされていく。
 反対に、「自分のこれまでの働き、成功、富、栄誉などがあったからこうしてクリスチャンになった」というような思いがあるなら、それは、まさしく「偽善者」への仲間入りである。仮に、これまでの社会的成功があったとしても、「それでも尚、このようなものが私を救うのではない。それは価値のないものである」という謙りがなければ危険である。
 例えば、私は、クリスチャンになれたとき、当時の社会的な一定の成功に満足したのではなく、反対に「それら全てよりも重い自分の罪に苦しみ、自分にとっては、それらは何の価値もない」というパウロの心境になれたからこそ、キリストの救いを受けたのである。そして、へりくだって救われた後に気づくことは、救われる以前の働きも、主は認めて下さり、用いて下さり、きよめて良きものとして下さっているということである。主は無駄なことは何もなさらない。自分で誇っていた時には偽善であったものも、救われて後は、主がそれらを用いて下さることがわかる。(私の場合は、現在、牧師件クリスチャン画家として、過去の美術の働きも良きものとして用いて下さっている)
●救われて後、クリスチャンがもっとも気をつけないといけないのは、「クリスチャンとしてのこの世での評価、評判」である。例えば、私は、以前は毎年何度となくテレビやラジオに出演してきたが、牧師になって以来、それがないことを喜んでいる。取材があるようにと願うことはなく、むしろ避けている。又、牧師の中や教会間で、私が上に立つことや注目されることを望まない。勿論、キリスト教美術、文化伝道や創造論など、大事にしていることはあり、その為の活動はするが、自分が果たす役割は縁の下の働きでよいと思っている。そもそも、教会に於いて美術が注目を受けることはまずない。大切なことなのだが、殆ど人々に、そして教会からも無視されており、一朝にして評価を受けるはずがない。唯、皆がすぐに気付かなくても、イエス様はその働きの大切をわかって下さっているはずなので、時間をかけてこつこつと進めたいと思う。
 更に、キリスト教会で人間的な評価を受けることは、高慢になって自分をだめにしてしまう恐れがあるから気をつけないといけない。教会の指導者でも、「自分を大きく見せようとする者」「自分を誇って、他を低く見る者」が時々いることを経験してきたからである。
教会の指導者=執事、役員たちが牧師を攻撃する(その結果、牧師が精神病や自殺という結果になったという例もいくつかある)、あるいは信徒を批判して躓きを与える,あるいは、教会内に対立を生じさせて分裂し、大混乱に陥らせるなども聞くことがある。これは信徒や牧師が、「偽善者」に陥る一番危険な道である。(場合によっては,偽善者どころではなく教会の破壊者になる)」大寺俊紀

| | コメント (0)

2009年1月23日 (金)

2009年1月第4週のメッセージ

「諸国の民は栄光を携えて来る」
●聖書箇所:ヨハネの黙示録21章26節
3)人間が復活するのなら・・・
●私たちは、主の力とその愛の大きさを知っている。
○主は、我々朽ちる体しか持たない者や、すでに死んだ者もを永遠の死のない体に変えてくださる。その方が、人間の体以外は復活させることが出来ないというのはおかしい。人間という最高に高度な体を復活させられる方は、人間が創造し、大切にし、愛してきたものも、一緒に復活させて下さり、栄光の姿に変えて用いさせて下さる方だと思う。
○ピアニストがいてもピアノがない。小説家がいても本が何もない。画家がいても全ての絵が焼かれていてない…これはおかしいと思う。朽ち果てるべき我々の体が朽ちない体にして頂けるのなら、人類が愛し、大事にしてきた文化文明の良きものも、主が愛され、また天に栄光の形に変えて上げて下さるのではないかという「希望」を持っている。
●その神学的な根拠は、21章24,26節である。24節の「地の王」とはクリスチャンのことを呼んでいる。諸国の民と同じ意味である。「地の王たちはその栄光を携えて都に来る」「人々は、諸国の民と栄光と誉れとを、そこに携えて来る」この時、私たちは「裸」ではない。栄光を携えている。勿論、その中身は千差万別である。
●ある人にとっては、「信仰」であり、「宣教」の働きである。また別の人にとっては「信仰による愛の行い」でもある。私は、聖書幼稚園に20年行っているが、園の先生たちは、礼拝は勿論だが、礼拝や宣教だけではなく、宣教のためにも役立つようにとキリスト教主義の教育も同時にしている。つまり、「信仰と礼拝に加えてなされる、文化、教育、福祉などの活動」も素晴らしい栄光となる。
また、教育、学芸、芸術、あらゆる文化、福祉、医療、スポーツなどの働きも、それ自体を目的とするのではなく、主の愛の実践、また宣教の働きの一環としてなされるならば、それも「栄光」とみなされ讃辞を受けるはずである。(素晴らしい町や、建物、教会も、そして美術作品も・・・と期待している)
●宣教だけが全てという人もあってよい。しかし、信仰や宣教に加えて、愛に基づく素晴らしい働きをしているクリスチャンも多い。それらも認められ、天に挙げられ、永遠に楽しむことが許されるはずである。それでこそ、永遠の時を心から楽しむことが可能となるであろう。」大寺俊紀

| | コメント (0)

2009年1月17日 (土)

2009年1月3週目のメッセージ

「刈り入れのとき」
●聖書箇所:ヨハネ黙示録14章14-20節
「●黙示録に対するいくつかの立場を説明すると。・・・

③三つ目の立場は、私たち福音主義神学で、歴史区分については、福音主義の場合も、概ね6,7の時代に分けているが、患難時代を特に7年と断定しない。聖書の数字は象徴的な意味が多いので、「一定期間」「おおよそ7年?」などとする。(エデンの時代、父祖時代、律法時代、新約時代、患難時代、千年王国時代、新天新地(永遠)とし、あまり確定的に言わない。)福音主義の神学はおおよそ次のような立場、解釈である。
1) 聖書は、誤りのない神(創造主)の書であると信じ、教える。
2) 天地万物は創造主なる神の作品であると信じる。(但し、福音主義の一部は、進化論の影響で崩されている。彼らは自信をなくし、「聖書は正しいが進化論も正しいのかもしれない」と考えるらしい。従って、進化論に沿って、解釈する神学に飛びつき、その矛盾に気づかない。
3) 旧約聖書の歴史は真実であり、その預言も完全に成就している。
4) イエス・キリストの預言もすべて成就している。処女降誕、贖いの死、復活、そして再臨も信じている。
5) 黙示録の記述も過去の新約時代と今後の患難時代、そして千年王国、新天新地(永遠)として、実際に起こることとして信じ、学ぶが、慎重に学び終末の未来預言については、「必ず、いつ、こうなる」などと断定的には解釈しない。
6) 主の再臨と、クリスチャンの携挙は、「患難時代の前か、中間か、終わり頃のいつか」に起きるとし、断定しない。可能性としては、患難時代の中間、獣の登場の只中の可能性が高いと予想している。
もし、再臨と携挙の時期を黙示録4章1節の言葉だけで患難時代の前と信じていると、それ以後の黙示録の聖徒の記述は理解できない。例(12章17節(P.490)では、「竜」は女の子孫=教会、クリスチャンと戦う。13章7節でも、「獣」は聖徒たちと戦い一時的に勝ち、同10節では、殺される者が多いからと、聖徒の忍耐が求められている。
 イエス様の言葉を見ても、マタイ24章15節で、まず、「荒らす憎むべき者が登場し、聖徒たちに苦難があるが、選ばれた者のために、その日数が少なくされます。」(22)とあり、その後、30節でキリストの再臨、そして、携挙(31)という順番なので、この言葉通り理解するのが無理がない。
また、現実に、再臨携挙が起きていないのに「獣」が登場して患難時代に入ってしまったことが起こると、聖書や教会の全てが信じられなくなり動揺し、狼狽する恐れがある。実際に携挙があって初めて、「再臨と携挙はこの時期だったのだな」と理解すればよい。
7) 未来についての自分たちの解釈、神学が絶対に正しく「他の解釈は間違っているから、一緒に行動してはいけない。分離しなければいけない」とはしないで(分離主義、孤立主義)、出来るだけ一緒に福音運動を広めることを心がける。(超教派伝道活動)
(ビリー・グラハム、ルイス・パラウなどの多くの超教派宣教大会、ケズイックコンベンション、近畿福音伝道協議会大会などはすべて福音主義教会が98%以上で、根本主義やリベラル神学の参加は殆どない。分離主義派の場合は、分離派同士が集まることもない。)」大寺俊紀

| | コメント (0)

2009年1月11日 (日)

2009年1月第2週のメッセージ

「わたしはだれが死ぬのも望まない」
●聖書箇所:エゼキエル18章19-32節
「三、罪を犯した者は、その者が死ぬ
1)「父が酸いブドウを食べたので」(P.1385)

●18章は、『父が酸っぱいブドウを食べたので、子どもの歯が浮く』という、イスラエルで当時流行っていたことわざが取り上げられる。
●イスラエルの人々は、「私たちの受けている罰=裁きは、自分たちの罪、咎のせいではなく、父=先祖の罪のせい」だと言っていた。いわば、ふてくされ、罪に対して開き直っており、自責の念がなかった。だから、主は4節にあるとおり、「すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、そのものが死ぬ」ではじまり、父が罪を犯していても、子が罪を犯さないなら、子は死なない、子は父の咎の罰を受けない(20)などと教えている。
●19節の、「子が父の咎の罰を受けないのはおかしい」という反論は、「我々(子)には罪がないから裁きは不当だ」という反論であった。
2)悔い改めない心
●19節の反論、また、25節の「主は公正でない」という主張は大きな誤りを犯している。
 イスラエルの間違いの一つは、悔い改める者は赦されるという主の愛を知らないことで、もう一つは、
「自分たちは罪を犯していない、父の世代(先祖)の罪のせいで裁かれているのだ」という主張であった。
 それは、開き直りと悔い改めがないということにつきる。
3)主のみこころ
●しかし、主のみこころはもっと大きい。それは、23節と32節にあるように、「悪者の死も喜ばない」「悪者でも、悔い改めて生きることを喜ぶ」ということ、「だれが死ぬのも喜ばない」「だから悔い改めて生きよ」というものである。
●今「悪者=罪を犯している者」でも、悔い改めれば赦されて生きる。この愛を知ることが大事である。
●反対に、「今正しい人」でも今後罪を犯して悔い改めなければ死ぬ、これが原則である。26節の通り、正しい人でも、正しい行いから遠ざかり、不正をするなら、そのために彼は死ぬ。
●ここで、「生きる」「死ぬ」とあるのは、「今すぐに目に見える形で」ということではない。「死ぬ」というのは主とのつながりが絶たれ、最終的に裁きとしての死、死後の裁きを受けるという意味。「生きる」は反対に、主とのつながりが与えられ、ともにいてくださり、死後にも復活のいのちがあり、裁きは受けない。
●クリスチャンが信仰を捨て,主を忘れて生きるなら、それは、「罪=的外れ」となる。今すぐに主の裁きを受けないからといって。主がこうして絶えず語りかけておられることを忘れてはいけない。主のみこころは、23,32節のように,だれが滅ぶのも喜ばない。悔い改めて生きることを喜ぶというものである。そして、この言葉に耳を傾けない者に対して,主は、31節のように切々と訴えておられる。
「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」と
●祈り」
大寺俊紀

| | コメント (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »