2009年2月第1週のメッセージ
「偽善者のようであってはいけません」
●聖書箇所:マタイ6章1-4節
「3)クリスチャンにとっての「偽善」とは?
●パウロは若きユダヤ教の指導者で、将来は大祭司にもなったかも知れないほどの人物であった。しかし、彼は、自分の経歴、働き、地位などは、全て「ちりやあくた」だと思っている。(ピリピ3:8)
●クリスチャンもこれと同じ思いを持つことが大事である。勿論、これまでの全てが、何の価値もないということではない。例えば、ある著名な学者がクリスチャンになったとして、(このようなことはよく聞く実話であるが)、それまでの研究には1%も価値がないかというとそうではない。それまでの努力してきた研究は、クリスチャンにされる課程としての意味があり、それ自体にも意味、価値がある。しかし、次のような思いが必要である。~つまり、「もし、私が救われていなかったら、そのままなら、過去の栄誉も研究も、永遠のいのちにとっては無価値となったであろう」という認識、評価である。しかし、、パウロの場合も、何の価値もないという過去の知識は、今後の使途としての働きの中で生かされていく。
反対に、「自分のこれまでの働き、成功、富、栄誉などがあったからこうしてクリスチャンになった」というような思いがあるなら、それは、まさしく「偽善者」への仲間入りである。仮に、これまでの社会的成功があったとしても、「それでも尚、このようなものが私を救うのではない。それは価値のないものである」という謙りがなければ危険である。
例えば、私は、クリスチャンになれたとき、当時の社会的な一定の成功に満足したのではなく、反対に「それら全てよりも重い自分の罪に苦しみ、自分にとっては、それらは何の価値もない」というパウロの心境になれたからこそ、キリストの救いを受けたのである。そして、へりくだって救われた後に気づくことは、救われる以前の働きも、主は認めて下さり、用いて下さり、きよめて良きものとして下さっているということである。主は無駄なことは何もなさらない。自分で誇っていた時には偽善であったものも、救われて後は、主がそれらを用いて下さることがわかる。(私の場合は、現在、牧師件クリスチャン画家として、過去の美術の働きも良きものとして用いて下さっている)
●救われて後、クリスチャンがもっとも気をつけないといけないのは、「クリスチャンとしてのこの世での評価、評判」である。例えば、私は、以前は毎年何度となくテレビやラジオに出演してきたが、牧師になって以来、それがないことを喜んでいる。取材があるようにと願うことはなく、むしろ避けている。又、牧師の中や教会間で、私が上に立つことや注目されることを望まない。勿論、キリスト教美術、文化伝道や創造論など、大事にしていることはあり、その為の活動はするが、自分が果たす役割は縁の下の働きでよいと思っている。そもそも、教会に於いて美術が注目を受けることはまずない。大切なことなのだが、殆ど人々に、そして教会からも無視されており、一朝にして評価を受けるはずがない。唯、皆がすぐに気付かなくても、イエス様はその働きの大切をわかって下さっているはずなので、時間をかけてこつこつと進めたいと思う。
更に、キリスト教会で人間的な評価を受けることは、高慢になって自分をだめにしてしまう恐れがあるから気をつけないといけない。教会の指導者でも、「自分を大きく見せようとする者」「自分を誇って、他を低く見る者」が時々いることを経験してきたからである。
教会の指導者=執事、役員たちが牧師を攻撃する(その結果、牧師が精神病や自殺という結果になったという例もいくつかある)、あるいは信徒を批判して躓きを与える,あるいは、教会内に対立を生じさせて分裂し、大混乱に陥らせるなども聞くことがある。これは信徒や牧師が、「偽善者」に陥る一番危険な道である。(場合によっては,偽善者どころではなく教会の破壊者になる)」大寺俊紀

