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2008年12月25日 (木)

2008年12月28日礼拝メッセージ

「創造主が私たちの血族となられた」
●聖書箇所:Ⅰコリント15章45-49節
創造主が私たちの血族となられた
人は自分のアイデンティティを探して生きています。それで自分の家系図を造る人もいます。しかし究極のルーツをどう考えているのでしょうか?多くの人はサルから進化したと考えるでしょう。クリスチャンと呼ばれる人の中にも自分のルーツがサルか、あるいはそうでなくても完全にアダムかどうかは分からないという人がいます。しかし、ルーツが何かと言うことは、私たちが福音にあずかる対象か否かの重要問題なのです。

聖書は、最初の夫婦であるアダムとエバの3人の息子、カイン、アベル、セツの名が記されています。カインはアベルを殺めたとあり、続いて彼の妻のことが書かれています。すると、彼女はどこから来たのでしょうか? しかし聖書は、創造主が最初に造られた人はアダムとエバの二人だけであったことをはっきり告げているのです。
  全人類が一夫婦から始まったのなら、初期の頃は近親結婚で、少なくとも一度は兄妹間の結婚があったはずです。もし、カインが彼の姉妹と結婚したのでないなら、姪と結婚したはずです。その場合は、彼の弟が彼の姉妹と結婚していたということです。しかし、生物学的にも道徳的にも問題があり、謎とされていました。
それで、この問題をクリスチャンが説明できないとして、聖書を疑う懐疑主義が広がり、進化論の台頭がそれに拍車をかけました。進化論的な解釈が起こり、多くのクリスチャンはこの問題を避けるようになりました。それらの解釈の例を挙げましょう。
1)アダムとエバは進化して人間になったので、他にも同じ身体を持つものがいた。
2) アダムとエバ以外にも創造された人がいた。
3) 分からない。
4)創世記は古代の作り話なので現代科学から見れば矛盾がある。

ところが、聖書ははっきり告げています。アダムは‘最初の人’(1コリント15:45,47)、そしてエバは‘すべて生きているものの母’(創世記3:20)であり、すべての人はアダムの子孫であることは明らかです「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して・・・」(使徒17:26)。ですから、もし、アダムとエバの子孫でない人々が存在するなら、福音が論理的に崩壊します。救われる前提条件はアダムの肉体的子孫であることは、明らかです。イエス・キリストは‘最後のアダム’と呼ばれ(1コリント15:45)、私たちの‘血族の贖い者’です。これは、すなわち、神(創造主)の御子イエスが完全に創造主であると同時に完全に人となられたことによります。
世界中のすべての人は血族であり、イエス・キリストは私たちの血族となられ、同じ境遇を歩まれ、同じ血を流して救いを完成させてくださいました。隣の十字架にかかった人はそのことがよく分かったのでしょう。

  ところで、今では、遺伝子の研究から、人類の初期では近親の結婚で生物学的問題がなかったことが分かっています、道徳的にもモーセ以前は律法の問題はありませんでした。カインは妹か姪と結婚したはずです。」
http://b-c.jp 記)安井 亨 (バイブル&クリエーション)

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2008年12月19日 (金)

2008年12月第3週のメッセージ

「過ぎ去った時代、今の時代」
●聖書箇所:使途の働き14章8-18節
3)キリストの降誕と再臨
○エレミヤ書31章で学んだように、ユダへの裁きの後、主は彼らに慰めの契約を与えられた。そして、救い主を送ると約束された。
17章31節にある、「お立てになった一人の人による、義をもってするこの世の裁き」とは、再臨後の地上への火の裁きと最後の審判である。
●キリストの来臨(ご誕生)は、一つはこの終わりの時の火の裁きのためであるが、そのことは、イエス様が復活されたことによって確証を与えておられる。
●もう一つの意味は、「悔い改める全てのものを赦すために、人として来られ、身代りに十字架にかかられた」ということである。「無知の時代を見過ごしてこられた方」また、「過ぎ去った時代の罪を赦しておられた方」その方=イエス様が、私たちの赦しのために人として来られたのである。
●ルステラの住民が、二人を神々だと間違ったように、私たちも、以前は空しい生き方と罪が繰り返してきたが、今はキリストによって全てが赦されている。そして、その救い=福音を述べ伝えるために、信仰をもってこうして教会に導かれていることをクリスマスに臨んで今一度感謝したい。」大寺俊紀

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2008年12月12日 (金)

2008年12月13日のメッセージ

「エレミヤの釈放ー新しい契約」
●聖書箇所:エレミヤ40章1-6節
 エレミヤ31章31-14節
●今週は、外部講師ですので、先週の続きを掲載します。(なお、最近は、レジュメを掲載しています)
「2)彼らの心に書き記す*33)
○33節の「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。・・・」ということは、「聖霊の内住=インマヌエル」ということを予言している。
●モーセの時に与えられた律法は、「石」に書かれた文字であった。聖霊はごく一部の指導者や預言者のみに与えられた。途中で離れるということもあった。従って、以前の律法の契約は、絶えず教えられなければならないし、自分で理解していくということが少なかった。そして、イスラエルはたびたび主に反抗し、律法を破っていた。
●約2千年を経て、主は、人間のかたくなさを知り、契約を破られたこと、人間が守ることができないことを知り、「新しい契約」を示された。(人間が不信仰であるというこのことも、はじめからわかった上で、試す時間を持たれ、時を経て次の段階に進まれたとも解釈できる。アブラハムもモーセもはじめからキリストを念頭に置いているから)
●「心に書きしるす」33)とは、「聖霊がクリスチャンの内に住まれる」ということ=インマヌエルそのものである。そのためにも、主イエスは来られ、死なれて天に上がられた。ヨハネ伝を見ると、主は、ご自分が世を去って行くことによって、助け主聖霊が与えられることを何度も教えている。
●「おのおのお互いに教えない」34)は新約時代の「恵み」を教える。勿論、「100%教えることがない」という意味ではないが、クリスチャンは聖霊の内住により、信仰の祈りによって、聖霊が1人1人に真理を教えてくださる。牧師や教師も必要ではあるが、クリスチャンは聖霊によって成長し、また、成長すればますます聖霊に満たされ、「万民祭司」と呼ばれるように、キリストの香りを放ち、キリストに似た者へと変えられていくのである。これは、旧約時代の反抗的なイスラエルの民とは180度ほどの違いがある。旧約の4000年間、世界宣教はおろか、自分自身の救いも与えられなかったイスラエルと、この2千年を見ると、この御言葉が完全に実現したことを理解できる。それは、キリストの降誕、そして十字架の死と、その後の聖霊降誕の結果である。
3)「罪を二度と思いださない」*34)
○新しい契約によってもたらされた「キリストの降誕」そして、「十字架の死と聖霊降臨」これらがもたらした恵みの最大のものは「罪が完全に赦される」ということである。
キリストの死は、私たちの身代りの刑罰であった。だから、信じる者にはキリストの血による「赦し」が与えられる。与えられたことは「聖霊」が宿っていることによって知ることができる。その赦しは「完全」である。
 何かがあると、「以前の罪」が持ち出されてくるということはない。主の赦しは「二度と思いださない」というもの、「なかったことにして下さる」赦しである。
○ダビデも、罪が「覆われた者は幸いである」と述べている。罪に苦しむことはない。前を向いて、感謝して歩めるのである。」大寺俊紀

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2008年12月 5日 (金)

2008年12月第1週のメッセージ

「エレミヤの釈放ー新しい契約ー」
●聖書箇所:エレミヤ40章1-4節、エレミヤ31章31-34節
三、新しい契約*31章P.1302)
1)彼らはわたしの契約を破ってしまった*31.32)
○「見よ。その日が来る」
 今日は、平素と違う進め方で、エレミヤ書全体をダイジェストで見てきたが、これを振り返るときに、「主のみことば」というのは、「時々」「特殊な場所で」「特定の人=預言者に伝えられ」一般の人がそれを聞くこと、触れることがないというようなものではなく、直接、何度も王や側近、国の指導者、そして国民にも語られていたということである。エレミヤ書を見ると、彼の40年の活動全てが、危険を感じ、迫害を受けながらの預言者であったことを知ることができる。
 エレミヤは、言葉だけではなく、自分がかせにつながれて王の前に登場するなど、視覚的な物も用いて、具体的に言葉を与えた。そして、怒りを受け、逮捕、監禁され、命の危険も幾度となくあった。しかし、その都度、主の手が差し伸べられ、エレミヤは最後の日まで守られていた。そして、従わなかった王や家族たちは虐殺され、またバビロンに引かれていった。
 「彼らは、私の契約を破ってしまった」という32節の主のことばは、モーセの時代のイスラエルの民だけではなく、バビロンの攻撃を現実に受けていた時代のユダの王や指導者たち、そして国民も、この40年間、最後の最後まで拒否し続けてきたことを示している。
 これらの、エレミヤ書の記述を見るとき、同時に今日の日本人のかたくなさをも思わずにおれない。繁栄すればしたで、高慢になり、暗い影が押し押せれば、また同じように偶像礼拝や自己保身だけに目が行く、それがいつの時代にも共通する人間の不信仰である。
 しかし、「その日が来る」。その日とは、「ダビデの契約」であり、「ダビデの若枝」が与えられる日である。モーセ時代のイスラエルも、その後のダビデ以降のイスラエルも、主との契約を破ってきた。彼らは、常に心が定まらず、偶像礼拝の道を歩んだ。そして、主に信頼して歩むことを拒否し続けた。にもかかわらず、主は次のように言われる。
*31:3.4)「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。・・・おとめイスラエルよ、わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」
それは、主の深い愛である。どんなに罪を犯し、背いてもやはり私たちを愛し続けておられる。憐れみに満ちた方だからである。
*31:20B)「・・・それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにいられない。」
大寺俊紀

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