2009年11月8日メッセージ
「2009.11.8 礼拝資料 ヨシュア記3章5-17(P.372)*マタイ28:20(P.63)
―-共におられる方シリーズ―①
「ヨルダン川の奇蹟―信仰の勝利―
はじめに:前回のシリーズは民数記を中心に「罪と贖いシリーズ」を5回持ちました。11月は3回シリーズで「共におられる方」シリーズを持ちます。ヨシュア記が中心です。次の12月は待降説教で、福音書からの「愛と光、近づいて下さった方」シリーズ、1月2月は福音書から「キリストの足跡」シリーズです。
一、主の備え
1、ヨシュアの任命と油注ぎ
●40年の荒野の生活が終わりました。カレブとヨシュアの二人を除いて、イスラエルの大人たち全てがいなくなり、子どもたちの世代が大人になりました。いよいよ、待ちに待ったカナン侵攻が始まります。
4日水曜日に聖地旅行の説明に旅行者の方が来てくださいましたが、その方はクリスチャンで、過去に18回ほどイスラエルに行っておられるとのことです。(これから、イスラエルのことが時々話に出ると思いますがご了解ください)彼によりますと、オリーブ山に立って西側のエルサレムを見渡しますと、緑が一杯で美しいそうですが、反対側(東側)を見ると、緑が全くない「完全に赤茶けた荒野」だそうです。全くの不毛の地、人間を拒絶するような石だけがごろごろする土地で、180度対照的だそうです。(勿論長期的に滞在していたのは、カデシュやシティム、モアブなどの草地や草原などと思われます。)
●カナン侵攻に備え、先ず主はモーセの後継者を選び、油注ぎをします。勿論、これは急に取り組んで、以前のように主導権争いになってはいけません。民が完全に納得することが必要です。そのために主は次のように行いました。
①偵察に行った際にカレブとヨシュアだけが主の御心にそっていたことで、当初から選んでいました。「ホセア=救いの意味」の名前を「ヨシュア=主は救いの意味」に変えていました。(民数13:16)カレブ(犬の意味)とヨシュアだけは40年の裁きから除外され生き残りました。(民数14:30-31)
●モーセに対して、ヨシュアに任命式を行うように命じました。
*民数記27:18-23(P.283)「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。・・・』
このように、「任命式=按手式」は権威を分け与えるものだとわかります。また、主(ヤハウエ)は、それを全会衆の前で行わせ、民が彼に聞き従うようにしています。
●31章では、モーセは自分の死を前にして、民の前でヨシュアに従って進めと命じます。その中で、「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さずあなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」と言う。
●31章14節からは、モーセの死ぬ日が近づいているからと主の前にモーセとヨシュアを立たせ、主は天幕の雲のうちに現れ、そこに留まり(P.359-360)主はヨシュアに直接命令します。23節)「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないので。わたしが、あなたとともにいる。」
2、40年の訓練と自信
●これからカナンに侵攻するに当たって、民数記14章の時のような民の反抗がなかったことは幸いでした。このことは、先ほど見たような主の備えを第一と考えますが、次に、この40年間の「訓練」が民の信頼と自信を養ったと思えます。このことを少し振り返りますと、次のようなことがありました。
①エジプトから解放し、紅海の奇蹟などを通してお力を示されてきた。
②主は、空から「マナ」を降らせ、「ウズラ」も降らせた。岩から「水」を出された。また、「苦い水」に投げられたモーセの杖は、その水を良い水に変えた。
③アロンの杖から「アーモンド」の芽が吹いた。
④主は、常に雲の柱の中にいて、昼は影とし、夜は明かりとなり,暖を与えた。また、雲の柱の中からことばを発せられた。
⑤十戒と律法を与え、激しく反抗するものを厳しく裁かれた。
⑥大人の世代が40年間荒野で過ごし、その後子どもの世代になって約束の地に入ると約束されていた。
⑦モーセに主の権威が注がれ、次にヨシュアにそれが引き継がれることを知らしめた。・・・
⑧モアブの草原で二人の王シホンとオグが襲ってきた際、主が勝利を与えてくださった。その地はガド、ルベンとマナセの半部族に与えられた。(彼らの希望にそって)
勿論、①―⑦の長期的な指導が土台ですが、民にとっては、最近のモアブでの勝利と占領が大きな自信と信頼につながっていたと思えます。
3、遊女ラハブの役割
●ヨシュア記1章16節ではイスラエルの民はヨシュアに対し、「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。・・・」(P.370)と答えています。
●次に、2章では、民全体がヨルダン川を渡って侵攻するに際して、まず、エリコの町に二人の斥候を送っています。二人は、城壁に組み込まれて建っている遊女ラハブの家に入ってそこに泊まります。これは、ふしだらな気持ちで入ったのではなく、一般の家には入るのは「強盗」として騒がれますが、「遊女の家」なら見知らぬ男でも出入りが容易だからと思えます。また、城壁にそって建っていた家というのも大きい理由です。町の中の家には入りにくいからです●ただ、彼らが、その家に入ったことは、「不思議な主の導き」としか思えません。事実、ラハブは彼らをかくまいます。
●イスラエル人の斥候が来ることはエリコの王が警戒し恐れていたことです。数百万(あるいは、数十万という説もありますが)の民がそばに迫っていて、ヨルダン河東岸の民がすでに滅ぼされたことを彼らが知らない筈がありません。また、イスラエルには主が共におられ、エジプトを脱出し、主がエジプトを裁き、紅海の奇蹟も起こされたことなどは知れ渡っており、彼らは怯えていました。(ラハブが2章9-13節で証言しています。P.371)
●ラハブの活躍は素晴らしいです。彼女はエリコの王が送ってきた者を騙し、彼らに嘘を教えて去らせて二人をかくまい、安全な時に彼らを帰した。その際、自分の家族全員のいのちを守って下さる約束を得ました。二人の斥候もラハブにいのちを守る約束をしました。
●こうしてイスラエルの斥候を守り、無事に帰還させたラハブですが、目印に「赤いひも」を壁にたらし。その後約束通り家族全員いのちは守られますが、彼女が受けた恵みはこれだけではありません。新約1ページのマタイ1章5節を開いて下さい。ルツ記の主人公ルツと結婚したボアズは、このルツから生まれています!なんと、ラハブはキリストの系図(家系)に入れられていたのですよ。ヤコブも2:25で、ラハブを褒め讃えています。(P.448)
私は、このラハブに、主の赦しの大きさと、徹底的に信じて従う者への素晴らしい恵みを強く教えられます。
二、先頭に立てるもの=みことば(契約の箱)
1、「身をきよめなさい」*ヨシュア3章5節)
●いよいよ出発のときです。カナン侵攻ですから、当然「戦い」が始まります。その地には砦や城壁があり、強大な敵がいるからです。
しかし、ヨシュアの命令は、「戦陣を整えよ」ではありませんでした。川岸まで行き、三日間そこに泊まり、最初に民に命じたことは、「契約の箱の後ろに下がれ」でした。約2千キュビトですから約8百メートルです。それは、「民の先頭に主が立たれる」ということであり、「主が備えられる、主が戦われるからそれを見よ」ということです。そして、民は「身をきよめる」ことが命じられました。
2、「わたしが共にいることを民が知るため」
●主が先に立たれ、民は後ろに下がり、身をきよめて主のわざを見守る、このことは、民が主を完全に信頼すること、主が民とともにいることを確信するためですが、それ以上に、ヨシュアとともに主がおられることを教えるためでした。7)
●また、「契約の箱」を先頭に立てること、契約の箱は、主からの契約のことばを入れた箱ですから、それは、私たちにすれば「聖書を先に立てる」ということになります。私たちが信頼し、また述べ伝えるものは「聖書のみことば」です。
3、祭司の足が水際に浸ったときに・・・
●民が天幕をたたんで出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちが先頭に進み、ヨルダン川まで来て、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ったとき、満水のヨルダン川の水が止まりました。そうして、祭司たちを先頭にして、民はヨルダン河を渡ったのです。
●ヨルダン川は、今度初めて見ることが出来るので楽しみにしていますが、それほど大きな川とは言えないらしい。(私の想像では大和川くらいかなと・・・)アラムの将軍ナアマンは、自分の国にはヨルダン川よりもっと立派な川がたくさんあると言いました。また、イスラエルは5月から半年間殆ど雨が降らないそうですから、夏場は水量が極端に少ないはずです。秋の11月に「先の雨」が降り、種をまき、2月頃に「後の雨」が降る。そうして麦などの刈り入れがなされる、また、3月には一斉に野の花が咲くそうです。とくに北部は草原が花いっぱいになるそうです。ですから、15節の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが」という記述は、2月の「後の雨」、あるいは3月の時期だということになります。ということは、主は、あと数カ月も待てば雨がなくなり、水量が減るのをご存じでありながら、そこまで待たせないで、敢えて最も水量の多い時期を選んで、川を渡るということをなさったということになります。
●16節には、具体的にアダムという町のところで、「せきをなして立ち、…完全にせき止められた。民はエリコに面するところを渡った。」と書かれています。
●これについて、ヘンリー・H・ハーレイの「新聖書ハンドブック」では、「アダム付近で、ヨルダン川は地滑りを起こしやすい粘土質の高さ12メートルの岸の間を流れている。1927年の地震のとき、この岸は崩れて、21時間も水の流れがせき止められた。神はヨシュアのために何かこういった手段で川の水が「つっ立つ」ようにされたのかもしれない。・・・・・」(主イエスもこの河で洗礼を受けられた。)
●新潟地震の時に、山間部で多数のがけ崩れが原因の自然ダムが出来て、そのダムを崩す作業が報道されていたので、みなさんの記憶に新しいと思いますが、主のお力ならば、それは容易なことであったと思えます。
三、「共にいる主」の確信と恵み
1、「主の山に備えあり」清水牧師の証し
●11月2日(月)に関西聖書塾があり、玉造にある「近畿放送伝道協力会」の会議室に行きました。これは、過去4回開催された「聖書、神学、教会形成セミナー」の縮小版で、セミナーは100名以上参加者がありますが、この「聖書塾」は小規模で進められています。今回約20人の出席でした。委員5人のうち3人が清水昭三牧師(私の按手委員)
、森田悦弘牧師(現在蛍池聖書教会、過去何度も当教会で奉仕)、中野博誉牧師(来年4月の奉仕ゲスト)と親しくして下さっている牧師ばかりです。
●今回、清水牧師からの発表(証)がありましたが、師の出発は知人の一人もいない高石市で、信徒ゼロ、奥様との二人だけの出発だったそうです。(給与は福音交友会から)最初の師の拠り所は「主の山に備えあり」というみ言葉だったそうで、私と同じでした。
●当初、市全域約3万世帯に何度もトラクトを配布したそうです。現在でも、年に一度は配布するそうです。その後、スポーツやキャンプなどの子ども対象の野外活動を積極的になさったとのことでした。スタート時は大きな屋敷の離れの一室(6畳)を借り、数年後には一軒家を借り、その後、10年目に土地350坪付きの古くなった寮を購入し、半分を礼拝堂に改装、あとは牧師館や英会話講師の宿舎にしたとありましたが、その時の支払いは月に80万円で15年間だったそうです。それにしても、信徒の皆さんの奉仕や献金が大変なものだったと思います。
●清水牧師は子どもが4人で、それぞれに教会をと祈ってこられたそうですが、現在それぞれ独立して高石、和泉市地区で計4教会になり、さらにお一人(長男)は、ご夫妻で、アフリカタンザニヤで宣教師として働いておられます(この方も子ども4人)。尚、清水師は40年を気に高石を若い人に譲り、自分は小さい開拓教会に移るとのことです。本当に、主が共にいて、働かれたと、感動いたしました。また、沢山学びたいと思いました。そして、このような素晴らしい牧師から「按手」を受けたことを大切にしたいと思います。
2、大事なことは確信と勇気
●最も大事なことは、主を完全に信頼することです。ご存じのとおりヨシュアは、民数紀14章で、12人の偵察メンバーに加わった際、民の殆どがカナンの地の民を恐れてカナン侵攻を拒否し、エジプトに戻ろうと主に反抗しましたが、カレブとともに民を説得しました。これは、後にイスラエルとペリシテ軍が対峙した際に、2メートル50センチほどの大男に立ち向かった少年ダビデの勇気に共通する素晴らしい信仰と勇気です。
●私たちの場合も、自分を誇ることはできませんが、主の恵みは誇ることができます。52歳で始めた時は、信徒がゼロ、資金はゼロ、現在でも牧師給与は十分ではありませんが、10年前から会堂が与えられ、昨年度には借入金がゼロになっています。今後は、(この地にあった人数というものがあるかも知れませんが、)主が共にいることを常に信じて歩んでいきたいと改めて思わされます。
●尚、聖書塾に参加しますと、60歳代半ばの牧師が、すでに40年間の働きを終えて、自らの働きを総括されていますが、私の場合はまだひよこですから、年齢に負けて疲れてはいけないと思わされます。他の牧師のように40年も働けないでしょうが、与えて下さっている役割を果たし、恵みを受けたい、主の栄光をあらわしたいと願います。
3、すべての信徒と共におられる主イエス
●最後に、マタイ伝の最後のことばを見ましょう。28章19-20節で、主は、「あなたがたは行って、あらゆる国人々を弟子としなさい。・・・また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われて、天に昇って行かれました。
●また、―あなた方のうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、・・・ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)―、更に食事の時も、―わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしも中に入って一緒に食事する―とも言われました。(黙示録3:20)
●共通することは、信じて集まる、信じて祈るということです。十字架と復活、そして再臨を固く信じ、信じる者の所に共におられる、このことを益々確信して歩み、ヨシュアやラハブの信仰と勇気に学んで歩みましょう。」
大寺俊紀

