2009年11月 7日 (土)

2009年11月8日メッセージ

「2009.11.8 礼拝資料 ヨシュア記3章5-17(P.372)*マタイ28:20(P.63)
―-共におられる方シリーズ―①
ヨルダン川の奇蹟―信仰の勝利―
はじめに:前回のシリーズは民数記を中心に「罪と贖いシリーズ」を5回持ちました。11月は3回シリーズで「共におられる方」シリーズを持ちます。ヨシュア記が中心です。次の12月は待降説教で、福音書からの「愛と光、近づいて下さった方」シリーズ、1月2月は福音書から「キリストの足跡」シリーズです。

一、主の備え
1、ヨシュアの任命と油注ぎ
●40年の荒野の生活が終わりました。カレブとヨシュアの二人を除いて、イスラエルの大人たち全てがいなくなり、子どもたちの世代が大人になりました。いよいよ、待ちに待ったカナン侵攻が始まります。
 4日水曜日に聖地旅行の説明に旅行者の方が来てくださいましたが、その方はクリスチャンで、過去に18回ほどイスラエルに行っておられるとのことです。(これから、イスラエルのことが時々話に出ると思いますがご了解ください)彼によりますと、オリーブ山に立って西側のエルサレムを見渡しますと、緑が一杯で美しいそうですが、反対側(東側)を見ると、緑が全くない「完全に赤茶けた荒野」だそうです。全くの不毛の地、人間を拒絶するような石だけがごろごろする土地で、180度対照的だそうです。(勿論長期的に滞在していたのは、カデシュやシティム、モアブなどの草地や草原などと思われます。)
●カナン侵攻に備え、先ず主はモーセの後継者を選び、油注ぎをします。勿論、これは急に取り組んで、以前のように主導権争いになってはいけません。民が完全に納得することが必要です。そのために主は次のように行いました。
①偵察に行った際にカレブとヨシュアだけが主の御心にそっていたことで、当初から選んでいました。「ホセア=救いの意味」の名前を「ヨシュア=主は救いの意味」に変えていました。(民数13:16)カレブ(犬の意味)とヨシュアだけは40年の裁きから除外され生き残りました。(民数14:30-31)
●モーセに対して、ヨシュアに任命式を行うように命じました。
*民数記27:18-23(P.283)「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。・・・』
 このように、「任命式=按手式」は権威を分け与えるものだとわかります。また、主(ヤハウエ)は、それを全会衆の前で行わせ、民が彼に聞き従うようにしています。
●31章では、モーセは自分の死を前にして、民の前でヨシュアに従って進めと命じます。その中で、「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さずあなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」と言う。
●31章14節からは、モーセの死ぬ日が近づいているからと主の前にモーセとヨシュアを立たせ、主は天幕の雲のうちに現れ、そこに留まり(P.359-360)主はヨシュアに直接命令します。23節)「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないので。わたしが、あなたとともにいる。」
2、40年の訓練と自信
●これからカナンに侵攻するに当たって、民数記14章の時のような民の反抗がなかったことは幸いでした。このことは、先ほど見たような主の備えを第一と考えますが、次に、この40年間の「訓練」が民の信頼と自信を養ったと思えます。このことを少し振り返りますと、次のようなことがありました。
①エジプトから解放し、紅海の奇蹟などを通してお力を示されてきた。
②主は、空から「マナ」を降らせ、「ウズラ」も降らせた。岩から「水」を出された。また、「苦い水」に投げられたモーセの杖は、その水を良い水に変えた。
③アロンの杖から「アーモンド」の芽が吹いた。
④主は、常に雲の柱の中にいて、昼は影とし、夜は明かりとなり,暖を与えた。また、雲の柱の中からことばを発せられた。
⑤十戒と律法を与え、激しく反抗するものを厳しく裁かれた。
⑥大人の世代が40年間荒野で過ごし、その後子どもの世代になって約束の地に入ると約束されていた。
⑦モーセに主の権威が注がれ、次にヨシュアにそれが引き継がれることを知らしめた。・・・
⑧モアブの草原で二人の王シホンとオグが襲ってきた際、主が勝利を与えてくださった。その地はガド、ルベンとマナセの半部族に与えられた。(彼らの希望にそって)
勿論、①―⑦の長期的な指導が土台ですが、民にとっては、最近のモアブでの勝利と占領が大きな自信と信頼につながっていたと思えます。
3、遊女ラハブの役割
●ヨシュア記1章16節ではイスラエルの民はヨシュアに対し、「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。・・・」(P.370)と答えています。
●次に、2章では、民全体がヨルダン川を渡って侵攻するに際して、まず、エリコの町に二人の斥候を送っています。二人は、城壁に組み込まれて建っている遊女ラハブの家に入ってそこに泊まります。これは、ふしだらな気持ちで入ったのではなく、一般の家には入るのは「強盗」として騒がれますが、「遊女の家」なら見知らぬ男でも出入りが容易だからと思えます。また、城壁にそって建っていた家というのも大きい理由です。町の中の家には入りにくいからです●ただ、彼らが、その家に入ったことは、「不思議な主の導き」としか思えません。事実、ラハブは彼らをかくまいます。
●イスラエル人の斥候が来ることはエリコの王が警戒し恐れていたことです。数百万(あるいは、数十万という説もありますが)の民がそばに迫っていて、ヨルダン河東岸の民がすでに滅ぼされたことを彼らが知らない筈がありません。また、イスラエルには主が共におられ、エジプトを脱出し、主がエジプトを裁き、紅海の奇蹟も起こされたことなどは知れ渡っており、彼らは怯えていました。(ラハブが2章9-13節で証言しています。P.371)
●ラハブの活躍は素晴らしいです。彼女はエリコの王が送ってきた者を騙し、彼らに嘘を教えて去らせて二人をかくまい、安全な時に彼らを帰した。その際、自分の家族全員のいのちを守って下さる約束を得ました。二人の斥候もラハブにいのちを守る約束をしました。
●こうしてイスラエルの斥候を守り、無事に帰還させたラハブですが、目印に「赤いひも」を壁にたらし。その後約束通り家族全員いのちは守られますが、彼女が受けた恵みはこれだけではありません。新約1ページのマタイ1章5節を開いて下さい。ルツ記の主人公ルツと結婚したボアズは、このルツから生まれています!なんと、ラハブはキリストの系図(家系)に入れられていたのですよ。ヤコブも2:25で、ラハブを褒め讃えています。(P.448)
私は、このラハブに、主の赦しの大きさと、徹底的に信じて従う者への素晴らしい恵みを強く教えられます。

二、先頭に立てるもの=みことば(契約の箱)
1、「身をきよめなさい」*ヨシュア3章5節)
●いよいよ出発のときです。カナン侵攻ですから、当然「戦い」が始まります。その地には砦や城壁があり、強大な敵がいるからです。
しかし、ヨシュアの命令は、「戦陣を整えよ」ではありませんでした。川岸まで行き、三日間そこに泊まり、最初に民に命じたことは、「契約の箱の後ろに下がれ」でした。約2千キュビトですから約8百メートルです。それは、「民の先頭に主が立たれる」ということであり、「主が備えられる、主が戦われるからそれを見よ」ということです。そして、民は「身をきよめる」ことが命じられました。
2、「わたしが共にいることを民が知るため」
●主が先に立たれ、民は後ろに下がり、身をきよめて主のわざを見守る、このことは、民が主を完全に信頼すること、主が民とともにいることを確信するためですが、それ以上に、ヨシュアとともに主がおられることを教えるためでした。7)
●また、「契約の箱」を先頭に立てること、契約の箱は、主からの契約のことばを入れた箱ですから、それは、私たちにすれば「聖書を先に立てる」ということになります。私たちが信頼し、また述べ伝えるものは「聖書のみことば」です。
3、祭司の足が水際に浸ったときに・・・
●民が天幕をたたんで出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちが先頭に進み、ヨルダン川まで来て、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ったとき、満水のヨルダン川の水が止まりました。そうして、祭司たちを先頭にして、民はヨルダン河を渡ったのです。
●ヨルダン川は、今度初めて見ることが出来るので楽しみにしていますが、それほど大きな川とは言えないらしい。(私の想像では大和川くらいかなと・・・)アラムの将軍ナアマンは、自分の国にはヨルダン川よりもっと立派な川がたくさんあると言いました。また、イスラエルは5月から半年間殆ど雨が降らないそうですから、夏場は水量が極端に少ないはずです。秋の11月に「先の雨」が降り、種をまき、2月頃に「後の雨」が降る。そうして麦などの刈り入れがなされる、また、3月には一斉に野の花が咲くそうです。とくに北部は草原が花いっぱいになるそうです。ですから、15節の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが」という記述は、2月の「後の雨」、あるいは3月の時期だということになります。ということは、主は、あと数カ月も待てば雨がなくなり、水量が減るのをご存じでありながら、そこまで待たせないで、敢えて最も水量の多い時期を選んで、川を渡るということをなさったということになります。
●16節には、具体的にアダムという町のところで、「せきをなして立ち、…完全にせき止められた。民はエリコに面するところを渡った。」と書かれています。
●これについて、ヘンリー・H・ハーレイの「新聖書ハンドブック」では、「アダム付近で、ヨルダン川は地滑りを起こしやすい粘土質の高さ12メートルの岸の間を流れている。1927年の地震のとき、この岸は崩れて、21時間も水の流れがせき止められた。神はヨシュアのために何かこういった手段で川の水が「つっ立つ」ようにされたのかもしれない。・・・・・」(主イエスもこの河で洗礼を受けられた。)
●新潟地震の時に、山間部で多数のがけ崩れが原因の自然ダムが出来て、そのダムを崩す作業が報道されていたので、みなさんの記憶に新しいと思いますが、主のお力ならば、それは容易なことであったと思えます。

三、「共にいる主」の確信と恵み
1、「主の山に備えあり」清水牧師の証し
●11月2日(月)に関西聖書塾があり、玉造にある「近畿放送伝道協力会」の会議室に行きました。これは、過去4回開催された「聖書、神学、教会形成セミナー」の縮小版で、セミナーは100名以上参加者がありますが、この「聖書塾」は小規模で進められています。今回約20人の出席でした。委員5人のうち3人が清水昭三牧師(私の按手委員)
、森田悦弘牧師(現在蛍池聖書教会、過去何度も当教会で奉仕)、中野博誉牧師(来年4月の奉仕ゲスト)と親しくして下さっている牧師ばかりです。
●今回、清水牧師からの発表(証)がありましたが、師の出発は知人の一人もいない高石市で、信徒ゼロ、奥様との二人だけの出発だったそうです。(給与は福音交友会から)最初の師の拠り所は「主の山に備えあり」というみ言葉だったそうで、私と同じでした。
●当初、市全域約3万世帯に何度もトラクトを配布したそうです。現在でも、年に一度は配布するそうです。その後、スポーツやキャンプなどの子ども対象の野外活動を積極的になさったとのことでした。スタート時は大きな屋敷の離れの一室(6畳)を借り、数年後には一軒家を借り、その後、10年目に土地350坪付きの古くなった寮を購入し、半分を礼拝堂に改装、あとは牧師館や英会話講師の宿舎にしたとありましたが、その時の支払いは月に80万円で15年間だったそうです。それにしても、信徒の皆さんの奉仕や献金が大変なものだったと思います。
●清水牧師は子どもが4人で、それぞれに教会をと祈ってこられたそうですが、現在それぞれ独立して高石、和泉市地区で計4教会になり、さらにお一人(長男)は、ご夫妻で、アフリカタンザニヤで宣教師として働いておられます(この方も子ども4人)。尚、清水師は40年を気に高石を若い人に譲り、自分は小さい開拓教会に移るとのことです。本当に、主が共にいて、働かれたと、感動いたしました。また、沢山学びたいと思いました。そして、このような素晴らしい牧師から「按手」を受けたことを大切にしたいと思います。
2、大事なことは確信と勇気
●最も大事なことは、主を完全に信頼することです。ご存じのとおりヨシュアは、民数紀14章で、12人の偵察メンバーに加わった際、民の殆どがカナンの地の民を恐れてカナン侵攻を拒否し、エジプトに戻ろうと主に反抗しましたが、カレブとともに民を説得しました。これは、後にイスラエルとペリシテ軍が対峙した際に、2メートル50センチほどの大男に立ち向かった少年ダビデの勇気に共通する素晴らしい信仰と勇気です。
●私たちの場合も、自分を誇ることはできませんが、主の恵みは誇ることができます。52歳で始めた時は、信徒がゼロ、資金はゼロ、現在でも牧師給与は十分ではありませんが、10年前から会堂が与えられ、昨年度には借入金がゼロになっています。今後は、(この地にあった人数というものがあるかも知れませんが、)主が共にいることを常に信じて歩んでいきたいと改めて思わされます。
●尚、聖書塾に参加しますと、60歳代半ばの牧師が、すでに40年間の働きを終えて、自らの働きを総括されていますが、私の場合はまだひよこですから、年齢に負けて疲れてはいけないと思わされます。他の牧師のように40年も働けないでしょうが、与えて下さっている役割を果たし、恵みを受けたい、主の栄光をあらわしたいと願います。
3、すべての信徒と共におられる主イエス
●最後に、マタイ伝の最後のことばを見ましょう。28章19-20節で、主は、「あなたがたは行って、あらゆる国人々を弟子としなさい。・・・また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われて、天に昇って行かれました。
●また、―あなた方のうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、・・・ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)―、更に食事の時も、―わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしも中に入って一緒に食事する―とも言われました。(黙示録3:20)
●共通することは、信じて集まる、信じて祈るということです。十字架と復活、そして再臨を固く信じ、信じる者の所に共におられる、このことを益々確信して歩み、ヨシュアやラハブの信仰と勇気に学んで歩みましょう。」
大寺俊紀

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2009年10月31日 (土)

2009年11月1日のメッセージ


「2009.11.1 礼拝資料 申命記18章15節
―-罪ととりなし、贖いシリーズ―⑤
モーセが教えた預言者」
はじめに:民数記を中心に4回のシリーズを持ってきました。シリーズの最後は、申命記から一度お話しします。申命記は、出エジプト以来の、これまでの経過を改めて振り返り、民に対して主の教えを整理して説教しています。「申命」には、再度説教するという意味があります。ですから、内容的には、出エジプト記、レビ記、民数紀とほぼ同じですから、今回のシリーズでは取り上げませんでした。
 ところで、この18章の説教は、祭司の氏族であるレビ族について触れ、反対に10-12節では、偽りの宗教である占いや呪術などの忌みきらうべきものに従うなと命じておられます。そして、最後には、「わたしのような一人の預言者」に触れ、彼に従えと命じておられます。シリーズの最後に相応しい個所ですから、18章の15節を中心に考えます。

一、主の祭司と悪霊による占い師
1、祭司についての主のご計画、みこころ
●18章1節からのレビ族に関する規定を見ますと、レビ族は「相続地の割り当てを受けてはならない」1)「彼らは主へのささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない」1)「主ご自身が彼らの相続地である」ということばが大切です。
 主の御心は、イスラエル全体を守っていくためには12人のうち一人(レビ族)は、相続地を持つために戦い、働き、一般の仕事をしていく国民としてではなく、残りの11人(部族)を守るために主に仕える祭司となりなさいということです。また、これは、10分の一献金(ささげ物)との関連で成り立ちます。わかりやすく言いますと、レビ族自身も含める12人が一人の祭司(レビ)を持ち、12人のささげ物で一人の祭司(レビ)が祭司職に専念し、民のとりなしをします。(レビ族も10分の一を捧げます)
 これは、今の社会に例えますと、町の人口の10分の一くらいの人が公務員となり、学校の先生、警察官、消防署員、市役所の職員となって市民に奉仕する、公務員も含む市民は収入の一割を税金として支払う・・・というようなイメージです。
●勿論、主の御心としては、レビ人は「公務員」ということではなく、民の罪を取りなし、贖いをする祭司職ですから、罪のとりなしや贖い、そして、みことばを伝え、みこころにそって民を指導していくということを、いかに大切にしていたかがわかります。
 ですから、クリスチャンが10分の一献金をして教会を支え、献身者(牧師など)の生活を支え、かつ、指導を受け、とりなしを受け守られていくということは、教会員=クリスチャン全員が、霊のイスラエルとして主に守られて生きていく上での基礎的な役割です。
●レビがこうして支えられ、守られて働くことは、主に仕え、また、主の御名によって奉仕することですが、5節を見ると、そのために、「主があなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである」と書かれています。人間の自らの意思や欲求によるのではなく、主のご計画、みこころによってそれはなされています。これは、今日の教会での牧師の選びも同じです。また、彼らの相続地は主ご自身であるという約束は、天の約束が一層明確にされており素晴らしい言葉です。
●同時に、クリスチャン=教会員は、教会の構成員であると同時に、自らも、民全体に対しての「祭司」の役割を受けています。自分は、救われた者としてあるだけでなく、まだ救われていない民への証し人、とりなし人でもあります。
*Ⅰペテロ2章5(P.454)「あなたがたも、・・・聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
*黙示録20章6節(1章6節も)「・・・彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
2、悪霊の祭司に従うな*9-12)
●レビ人―祭司の説明に続いて、「偽預言者、偽祭司」としての、様々な働きをする者たちに従うなという警告が書かれています。これらは、聖書によれば悪霊に従い、悪霊の働きによる「偽りの預言者」として働く者たちで、活動の形態は多岐にわたっていますが、一言でいえば「偽のことばを語る者=偽預言者」です。
●具体的には、「自分の息子、娘に火の中を通らせる者」「占いをする者」「口寄せ」「死人に伺いを立てる者」「卜者」「まじない師」「呪術者」「呪文を唱える者」「霊媒をする者」「口寄せ」「死人に伺いを立てる者」10-11)とあります。同じような内容のものが並んでいて複雑ですが、整理しますと、①占い、まじない、呪文、呪術(じゅじゅつ)②霊媒、死人への伺いに分けることが出来ると思います。
①占いは、街角でもよく見かけます、手相占いから、姓名判断、星占いなども入ります。まじないや呪文は、何かの願い事や恨みなどを「願かけ」して果たそうとし、呪文を唱えるとなります。超能力的な技を見せるのが呪術で、テレビがこれを大きく取り上げることが問題です。
②の霊媒は、何かの霊(悪霊)に聞いて答えを引き出すというもので、死人への伺いは、すでに亡くなった者を呼び出して、その者の意向を聞き伝えるということをしようとする霊能者です。(死人の本物の声である保証は一切ありません。サウル王が預言者サムエルを呼び出させたことがありますが、本当にサムエルが登場したので霊媒師は仰天していますから、実際は嘘をついていたのに、このときだけ主がサムエルを呼び出したと思えます)
●「占い」は現代でも大変流行しており、特に女性で仕事や結婚がうまくいかないと相談するという傾向が多いと聞きます。もし、占い師の前の席についただけで、「あなたは仕事のことで悩んでいます」などと言われ、それだけで信じたら騙されます。手相や姓名判断、血液型、星占い(誕生日占い)などは、「統計学」としてはある程度の信ぴょう性がありますが、占いに頼って、あるいは支配されて、相性が悪いとか良いとか判断して行動することは大変愚かなことです。血液型は4つしかありませんが、それで、相性が良い悪いと決めると、そこに人間の愛や努力や学習、聖霊の働きなどは関係なくなります。先日のラジオ番組で、ある毎日放送の女子アナが、「放送局内でわたしがB型だと知れると、全員の態度が変わった。B型の女性はガサツ、気分屋だとか言われて嫌われる」と話していました。
また、例えば私(2月生まれ)と妻(8月生まれ)とは、性格が反対だから星座の相性は悪い、「末は必ず対立ばかりし、離婚に至ることが多い」と書かれています。では、離婚せよということでしょうか。努力しても駄目ということでしょうか。教会の中で、皆が星座や血液型で愛称を決めて、派閥を作ったらどうですか。占いに支配されると、暗示に掛けられ、かえって仲が悪くなり、主の御心や導きということが全く消え、キリストの愛や聖霊の働きを否定することになります。
●周囲にいる誰かが自分を呪っているから、自分も呪う、あるいは、呪文をかける、こういうことも悪霊に恐れて支配されることになります。嫌いな人が私を呪っているなどと怖がり出せば、精神病に陥ります。
●「霊媒や死人の伺い」については、私はどちらも経験がありますから注意してほしいと思います。実は、私の親戚のある人は霊媒師に伺いを立てる人でした。私の妹が不治の病であったため、その人は霊媒師に聞きました。すると、名前を言っただけで「兄弟に病人がいる。」と言われてそれだけで(神様だと)信じたと言います。そして、「家にはイチジクの木があるからそれを切りなさい」と言われ、それを伝えてきました。それだけで百万円近く払ったそうです。私の父親は、いやいやそれに従いましたが、それでも解決しません。また聞きに行きますと、今度は「庭にある井戸がいけない」と言われ、井戸をうめました。結局三度行って300万円近く払ったそうですが、ただの金儲けです。確かに井戸やイチジクは当たっています。霊媒師は、悪霊を使って現地を霊視する力は持っています。それだけは確かです。しかし、真理ではなく、愛でもなく、解決する力もありません。
●死人への伺いも学生時代に経験があります。22歳のころ下宿していた家は、戦前は軍需財閥の社長だった家でした。(戦前はその方の○○商店の名前入りの貨物列車が20両ほど走っていたそうです)その家には亡くなった前社長付きの霊媒師が、月一回来ていました。その霊媒師は数十年前に亡くなったお父さんを呼び出して意見を聞くと言っていました。お父さんのことばと言っても、霊媒師が自分の声で「声色で」言うだけです。結果はどうでしょう。その家の夫はアル中、ご夫婦は大喧嘩して離婚、やがて主人は早く亡くなり、長男は交通事故死とすべて悪いほうに行きました。霊媒師は何も守る力がなかったのです。
3、これらのものは、主が忌みきらわれる*12)
●12節を見ると。主はこれらのものを忌みきらわれるとあります。霊能力があっても、それらは悪霊によるものです。主がそれらを追い払われよと言われます。
そして、22節では、「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」とあります。つまり、彼は「偽預言者」であるということです。
●「偽預言者」については、聖書を知らない人は騙されやすいです。サリン事件を起こしたオウム教も、教祖は「自分はほふられた子羊」であると、キリストを真似ていました。
8月の選挙に数百人の候補者を出して、全員落選した党も、教祖は、「自分は釈迦の生まれ変わり。キリストの弟」などとパンフレットに書き、「我を信ぜよ」と豪語しています。そして、毎年多数の本を出版し、大新聞に大きい広告を出しますから、それで多くの人は信用します。今月には「仏陀再臨」という映画も出ています。すごい財源を投入してテレビ広告までしますから、映画を見て多くの若者はその教祖を再臨の仏陀だと信じるでしょう。しかし、それらは、全て自分ひとりで「不遜にも」言っているだけです。言った言葉で実現したことは何もありません。人類の歴史上、その教祖について預言した言葉は一言もないのです。しかし、多くの人は、新聞広告や映画やテレビの広告で信じるでしょう。私たちはこれらのことに注意せねばいけません。

二、モーセの預言:「私のようなひとりの預言者」

1、主イエスにおいて実現=成就している
●では、モーセ自身が教えた「私のような一人の預言者」という預言のことばはどのように実現しているでしょうか。それを検証しましょう。
●預言者ヨハネに対して、民衆は「あなたはどなたですか」と訊ねています。それに対して、ヨハネは「私はキリストではありません」と答え、次にエリヤですかとの問いにも「そうではありません」と続いて否定。更に「あなたは、あの預言者ですか」と問いますが、ヨハネは、今度も「違います」と否定します。「あの預言者」というのは、モーセが教えた申命記18:15の預言者のことです。
●さらに、ヨハネは1:25節では「キリストでもなく、あの預言者でもないのなら、なぜ、あなたはバブテスマを授けているのですか」と問われています。
●そして、ヨハネ1章45節では、弟子のピリポがナタナエルを見つけて次のように言っています。「私たちは、モーセが律法の中で書き、預言者たちも書いている方に出会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と。(このとき、ナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と否定しますが、それは後述します。)
●いずれにせよ、群衆や律法学者たちが、「キリストではないか、モーセが教えたあの預言者ではないか」と思ったヨハネも、自分自身でそれを否定していますが、キリストは否定されませんでした。否定されるどころか、かえって、ご自身でそれを確認されています。
2、主イエスの前に登場するモーセ
●ご存じのとおり、主イエスは弟子のうちぺテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登ったとき、「山上の変貌」と呼ばれるしるしを見せておられます。マルコ8:2-8(P.82)その時、イエス様の顔は太陽にように輝き、御衣は白く光ったとありますが、「エリヤがモーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた」とあります。4節)
●このことは、モーセが教えた一人の預言者がイエス様であることを証言しています。死後すでに1500年を経過しているモーセが、生きたまま天に挙げられた預言者エリヤとともに現れ、三人で語られたというのですから、本当に素晴らしい事です。
●さらに、イエス様が、律法学者たちから質問(と言うより詰問に近いですが)を受けている場面で、モーセやダビデ、アブラハムたちとの関係を語る場面がありますが、まず、ヨハネ5章45-46節では次のように語っておられます。(P.184)
「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなた方を訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」
また、ヨハネ8章57-58節では、モーセよりもさらに400年前のアブラハムとの関係を語っています。
「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。『あなたはまだ五〇歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。』イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」
3、ダビデの子ではなく、ダビデの主
●マタイ22:45では、珍しく、イエス様のほうからパリサイ人に対して質問しています。彼らが疑問に思っていることをご存じで、こちらから投げかけられました。
42)「『あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。『ダビデの子です。』」
そこで、主イエスは、さらに問います。
43)「イエスは彼らに言われた。『それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。-わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。-』と言っているのですか。
44)「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。』」
この主のことばに対しては、パリサイ人たちは何も答えることができませんでした。

三、つまづかないように・・・
1、丁寧に説明されたイエスとペテロ
●イエス様が三人の弟子の前で光り輝く姿に変貌されたときのことを、ぺテロは後になってとても重大なこととして書いています。
Ⅰペテロ1章16-18節(p.461) ペテロは、―その時、私は確かに目撃した、作り話ではない。声も聞いた―と断言しています。そして、そのことが、キリストの力と再臨の保証なのだと言います。ペテロが証言する、この「山上の変貌」のとき、モーセが登場していたのですから、モーセが地上で語った「わたしのような一人の預言者」は確実に主イエスだということです。そして、そのイエス様が、終わりの時に再臨なさるのです。
2、でも多くの人がつまづいた
●しかし、多くの人が理解できず、躓きました。弟子のナタナエルですら、最初に「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言いました。パリサイ派の人たちと同じ理解でした。彼は、ベツレヘムで生まれることを知っていましたが、ナザレに住まわれてナザレ人と呼ばれること、ガリラヤ地方は栄光を受けるということを理解していなかったのです。
●ユダヤ人の最大の誤解の原因は、2000年前のイエス様を、終末に来る再臨の姿と混同していたことです。「一人の人間として、しかも、弱くなられて登場する」「逮捕され、殺されようとしても何もしない=天の軍勢を呼び寄せない」その姿に誤解をし、イザヤ53章の意味(弱くなって、私たちの罪の贖いをする)を理解していなかったのです。
 故郷の人たちが、「あれは大工のヨセフの子ではないか。弟や妹も知っている・・・」と言って躓いたのも同じです。一人の人として来られた救い主を、全能の創造主と理解できなかったのです。
3、予断を持たず、素直な心で
●日本人の場合なら、ユダヤ人とは違う視点で躓きます。大抵は、「あの人は、多くの神々の中の一人」「外国の神」「殺された神になった」等々です。いずれも、創造主を理解せず、神々の中の一人という誤解が根底にあります。今日は、それらにお答えする時間がありませんが、3500年前にモーセが預言していた方、その方がキリストとしてこられた方、このことを素直に信じて下さい。聖書全体がそれを確かなものと教えておられます。
●祈り」大寺俊紀

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2009年10月24日 (土)

2009年10月25日メッセージ

バアル・ペオル事件

「一、事件の意味
1、主のご計画、イスラエル=選民の役割
●そもそも、主はなぜイスラエルを選ばれたか?
●「槍で男女二人を刺し殺すと神罰がやんだ」「この神罰で死んだ者は、2万4千人であった」ということばは、特別な畏怖の念を抱かせるもの、「主はなぜそこまで厳しいのか」という思いを持たれる方も多いと思う。
●このような旧約聖書のことばは、すべて、そのまま文字通りに今適用できるものではない。=私たちが偶像礼拝をする者を、槍で刺して殺せということではない=この歴史的な状況下でのこと、また、今の世への教訓や戒めとしての意味が強い。同時に、主の怒りは、今は直接的には示されないが、最後の審判ではもっと完全な裁きが下るという警告である。
従って、ここでの記述は最後の審判の予型である。
●そもそも、主はなぜイスラエルを選ばれたか?(また、私たちを選ばれたか?)
①イスラエルの選びの理由は、特別偉大な民、大きな民族だったということではない。反対に、最も小さな民、うなじのこわい=かたくなな民であった。また、奴隷となっていた民族であった。
→それは自分を誇ることのないように。自分たちの力が強いから選ばれたと誇らないため。
*申命記7:7(P.317)「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
②悲惨な奴隷状態から救いだされたことにより、主の力を知り、特別感謝するように。そして、主のことばに聞き従うように。
*申命記6:12(P.316)「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。御名によって誓わなければならない。」
③エジプトからの救出も、アブラハムの時代から前もって予言しておくことによって、主の救いを待望するように、救出された時に確信するように備えておられた。
●私たちクリスチャンの場合も同様である。
①自分を誇って、大きいものだと思っているときには主の救いを求めなかったが、小ささを知った時、へりくだったときに救いを示され、信じた。
②罪の奴隷から救われた、罪からいのちに移されたことにより、主のことばに従うということが可能になった。
③キリストによる救いは、人類の最初から啓示されていたから信頼できる。
2、これまでの命令のことば、最も大事なこととして強調されてきた
●イスラエル=選ばれた民の役割(クリスチャンにも同様のことばが与えられている)は、「主が良いと見られること」をすることを通して、主に守られて幸せになり、約束を受け、更に人類全体が本来の創造の目的に沿う正しい生き方をし、地球を守っていくこと。
*申命記6:18(P.316)「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。」
●「良い生き方」「正しい生き方」の根本的な土台は、「主のみこころを聞く」ことであり、そのためには、主を礼拝するということが絶対条件となる。反対に、主にそむく、主が最も悪いとすることは、主から離れ、主以外のもの=人間が自分勝手に自分の神を考え出し、それに従う=ということである。
*申命記6:14-15(P.316)「ほかの神々、あなたがたの周りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面(おもて)から根絶やしにされないようにしなさい。」
3、良い生き方=まことの神(創造主)と悪霊 
●また、主が正しい、また良いと見られることをするは、創造主であり審判者である方に従うことが条件となる。このことは、最初の人類の罪の始まりと関連する。アダムとエヴァは主の御声を聞いて、それに従う生き方ではなく、「善悪の木の実を食べる生き方」=善悪を自分で判断して、主に従わない生き方をそそのかされ、その道を選び、「死」を招いた。
●主の願いは、私たちがいのちを受けること、裁きを受けないこと、自分勝手に生きて不信仰の罪を犯し、主の怒りを受けないことである。
●従って、主には、私たちを罪に堕落させるもの=罪に誘惑するもの=サタンに対する強い怒りの気持ちがある。イスラエルの本来の役割が、まことの主を正しくお伝えすることなのに、反対にサタンの手に落ちてしまうことは、主が愛する子どもを失うこととなる。

二、主の燃える怒り
1、主の怒りの根源
●人間の死の始まりは、悪い霊=サタンの誘惑によるものだった。(サタンは堕落した天使)従って、人間が自分勝手に考え出す神々=宗教は、まことの創造主なる神を礼拝する信仰でなく、人間を堕落させ、罪を犯させ、地獄に導こうとするもので、それは結果としてサタンに従う=を礼拝することとなる。
*Ⅰコリント8:4(P.328)「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神(創造主)は存在しないことを知っています。
**Ⅰコリント10:19-20(P.331)「わたしは何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげた物は、神(創造主)にではなく悪霊にささげられている、と言っているのです。」
●このことを理解すると、主が偶像礼拝に対して激しい怒りを持たれる理由がわかると思う。人間が悪霊、サタンに従うことは、彼らとともに審判を受け地獄に落ちる最も愚かな存在になるということであり、主の愛が、それを怒り、悲しまれるのである。
2、カナンの地の住民の汚れ
●そもそも、イスラエルの地、約束されていたカナンの地は、中東では特別すぐれた、住みよい土地であったから多くの先住民がいた。先週見たようにアマレク人、ヘテ人、エブス人、エモリ人、カナン人らがいた。
しかし、彼らは特別に愚かで、極端な偶像礼拝をする民であり、イスラエル人がその地に入って行く頃にはそれがピークになると主はご存じであった。
*創世記15:16(P.21)「そして、四代目の者たちが、ここ(約束の地)に戻ってくる。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」=400年後にカナン人の罪咎が最高潮になるという意味。
●そして、イスラエル人が、カナンの地に入る最大の目的は、その地の住民の咎を罰し、主が罪を許さないことを人類に示すこと、そして、正しい信仰を世界に伝えることである。
*申命記20:16-18(P.339)「しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行っていたすべの忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたがの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」
●また、主の御心は、罪を罰することだけでなく、イスラエルが彼らによって罪に誘惑され罪を犯さないこと、そのために、誘惑を受ける可能性のあるものを完全に取り去れ、消し去れということである。
●主が彼らの偶像礼拝を忌みきらわれた理由に、次のようなものがあるが、それは大変おぞましいもので、人間がこのような礼拝をすることを最も嫌われるのである。
*申命記12;31(P.328)「あなたの神、主に対して、このようなことをしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘たちを、自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。」
3、「さらしものにせよ」*4)バアルを慕ったものをみな殺せ*5) 
●民数記25章では、モアブの娘たちが、自分たちの神々にいけにえをささげるのに民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ、とある。
「荒野で暮らし、貧しい食事をしているイスラエル人に、娘たちが食事に招き、そこには御馳走がある。御馳走、お酒、若い娘=異性、この三つが揃えば多くの人は誘惑される。理性をなくし、欲望にかられて行動する。
 イスラエルが、(クリスチャンが)この三つの武器を用いられて、そこに楽しみを求めれば破滅することは間違いない。これまで、荒野で耐えてきたことはすべて無駄になる。
●「主の怒りは燃え上がった」とある。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らをさらし者にせよ。」とのことばを受けて、モーセも裁きつかさたちに命じた。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」と
(このとき、モーセですら、とりなしの祈りをしていないことに注目せねばならない!)
4、ピネハスの行動*7-8)
●まさにその折に、こともあろうに、ひとりのイスラエル人男性が、ひとりのミデヤン人の女を連れてやってきて、テントの奥の部屋に入った。
●その時、祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスが、立ち上がり、手に槍を取り、二人を追っていき、二人の腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだとある。また、「この神罰で死んだ者は、二万四千人であった」とある。おそらく、疫病が突如蔓延し始めたが、ピネハスの行動が主の怒りをしずめ、神罰がやんだのであろう。
また、ピネハスはこのことがあって主の祝福を受けている。詩篇106は次のように絶賛している。*詩篇106:28-31(P.1015)「彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。こうして、その行いによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。」

三、「シティムにとどまっていた」
1、偶像礼拝=サタン礼拝へのさらなる裁き
●バアル・ペオルの事件は鮮烈な印象を与える、大変ショッキングな事件であるが、偶像礼拝への主の裁きと、我々人類への教訓はこれだけではない。過去何度も話したが、北イスラエルの滅亡(BC721)、南ユダの絶滅と70年間の捕囚(BC606-536)は、この事件の数百倍、数千倍の裁きであった。
●イスラエルは、ダビデとソロモンの時代は、偶像礼拝を廃し、主への信仰が祝福を受けた。平和のうちに豊かな80年を経験した。世界中から来訪者があり、王国の素晴らしさと王の知恵を礼賛した。
●しかし、ソロモン死後はすぐに国が分裂、北ヤロブアム王は、王国内にエルサレム神殿がないために、勝手に北王国内のベテルとダンに礼拝所を造り、金の子牛礼拝がはじまった。以来、主への礼拝は完全に排斥され、周辺諸国と同じ偶像礼拝の巣となった。そして、約200年後、北王国は消滅させられた。南の場合は、善王と悪王が交互に輩出し、善王が宗教改革を繰り返したが、悪王も堕落を繰り返し、遂に606年にバビロンによって壊滅、70年間の捕囚を受けた。しかし、主は、捕囚によって悔い改める民を起こし、彼らが帰還を赦され、ユダ王国を再建した。
●これらのことでわかるのは、主は偶像礼拝とその背後にいるサタン礼拝を決して赦さない、最後の審判では必ず厳罰を下すということである。
●ここで、日本人として最も注意せねばならないことは、721年の北滅亡、606年の南ユダの裁き以後、イスラエルには「偶像礼拝」は100%なくなったということである。さらに言えば、イエス様の来臨以後、キリスト教が世界に広げられ、現在なお偶像礼拝を残しているのは、アジアの数カ国だけという現状である。欧州、南北アメリカ大陸、オウストラリア大陸そしてアフリカ大陸には、古代遺跡はあっても、もはや礼拝対象としての「偶像」はない。八百万の神を当然としている日本人は格別厳しい主の裁きを受ける、このことを自覚せねばならない。
2、バラムの計略
●実はこのペオルの事件の背後には、バラムの計略があったと聖書は教えている。民数記22章でモアブの王バラクは占い師バラムを呼び寄せ、イスラエルを呪ってくれと依頼し、24章では、バラムは呪うことが出来ず、むしろ、祝福をしている。しかし、バラムはその後、策略を実行した。それが、このペオル事件とされている。黙示録2:14(P.478)ではペルガモの教会の中にいる一部の指導者は、「バラムの教えを奉じ、偶像の神にささげたものを食べさせ、不品行を行わせた」として断罪されている。偶像の食事の席に誘い、肉や酒を与え、若い娘(異性による誘惑)を与えることがバラムの教え、サタンの教えなのである。
3、私たちにとってのシティム
●最後に、イスラエルがこのような厳しい裁きを受けた原因について少し聖書から見たい。
1節を見ると次のことばが目に入ってくる。*1)「イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。」
「シティムにとどまる」とは、どう意味か?それは、イスラエルにとっては誘惑の危険がある場所にとどまったということである。では、我々の場合、「シティム」に当たる場所とは何か?
① 最も多いのは、25章と同じ「飲食、酒、異性」であろう。ある人との関係、それが罪に引き込むものであるならば、間違いなくそれは「サタンの誘惑」である。「少しくらいなら・・・」あるいは「一度だけだから・・・」と隙が出来る。公金使い込みや万引きなどの犯罪や薬物依存にしても、同じような「少しだけ」、「一度だけ」が滅びの始まりとなる。だから、その危険性を秘めているもの、具体例をいえば、旅行や日曜日午前中や土曜の夜遊びに誘われて日曜礼拝に行けない、あるいは、クリスチャンであること、礼拝を守ることを批判され、引き離される・・・そのような危険性を秘めた人との付き合いは、いつか、心の隙に付け込まれてしまう。その状態を保っていることが「シティムに留まる」こととなる。
② ある人にとっては、名誉や金銭欲、あるいは、多忙すぎる活動に留まる事も「シティム」になる。
③ その他・・・
●あなたにとってのシティムとは何か?あなたはそれをそばに置いていないだろうか?
私たちも、誘惑を受け、罪に落されるような危険から身を遠ざけ、主の怒りを受けることのないように、日頃から気をつけていたいものである。

●祈り:」大寺俊紀

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2009年10月 3日 (土)

2009年10月第1週のメッセージ

「権力欲、支配欲」-罪ととりなし、購いシリーズ②-
●聖書箇所:民数記12章1-16節
一、権力欲、支配欲の歴史
1、権力者の始まり
●最初に12章全体を見ましょう。ミリヤムは兄のアロンを誘って(引き込んで)モーセに反抗します。自分も指導者になれるのではないかという権力、支配欲から出たことは明白です。すぐに主の怒りが燃え上がり、三人を呼び寄せ、厳しく叱責し、ミリヤムはツアラートに冒されます。この後、アロンは悔い改め、モーセが主に祈ります。7日後ミリヤムは癒されますが、大きな禍根を残すことになります。権力や支配することを求めること、これは多くの人に潜在する気持ちですが、主に召され、推されて指導的な地位に就くのでなく、自ら争って求めるときは重い罪となります。教会、クリスチャンもしばしば陥るサタンの誘惑です。
聖書によれば、「最初の権力者はニムロデ」であったと記されています。創世記10:8,9
(P.14)彼は、ノアの洪水後ハムの長男クシュの子ですから、アダムとエヴァから始まる創世の世界では約1500年間「権力者」と呼ばれる者はいなかったということに注目が必要です。
●それは、創生当初は人口が少ないということと、大変豊かで、貧富の差がなかった、雨も降らず、天変地異などもなく、食糧などは豊かで平和そのものであり、社会に不公平がなく、人々は争うことなく、指導者を必要とせず、各々自由に生きていくことが出来たということでしょう。指導者を必要としない、公平で弱者も強者も存在しない。そこには、権力も支配もないということです。未来の「新しい天地」の永遠の生活に似ていると思えます。人間は、たわわに実る穀物や果樹を、自由簡単に手に入れて生活してきた。病気も殆どなく、約1000年も生きた時代では、病院も警察も軍隊もなく、税金も一切なく、人間を統治する機関(政府)も不要でした。
●しかし、洪水後、まず「地球が貧しくなり」=食糧調達が困難になり、それまでなかった「肉食」が始まると「狩り」が始まり、猟師として腕の良い者とそうでない者に力の差が生じ、(漁や作物の栽培も同じ)貧富の差、人間としての力の差が生じ、社会に格差が出てきました。更に、強者と弱者が生じると、弱い者は強い者に依存し、支配されるようになる、中間で流通や管理をする者も登場し、次第に権力体制が整っていったのでしょう。
2、ノアの洪水後に一変する
●ニムロデというひとりの権力者の登場のあと、民族が分かれ出て、最初は年長者の族長から始まり、それぞれが、自分たちの指導者を持つようになっていく。しかし、創世記10章32節で、「大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とあるが、「我、我も、と群雄割拠して」すぐに互いが戦い始めたというのではないらしい。むしろ、お互いが一つになって行動しようとしていたことが見えます。
●創世記11章には、「バベルの塔」の記述があります、そこでは、「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」(創世記11:4)とありますから、権力者が出ても、圧政者、独裁者とならず、最初は人間全体が一致して、仲が良かった、少なくとも対立して分裂するということでなかったようです。
●しかし、「バベルの塔」以降人類は分裂していきます。言葉がかき回されて、一致がなくなり、家族、親族はやがて部族となり、部族ごとに行動して、各々中東に留まる部族、四方に移動していく部族と別れます。戦いが苦手な部族は、戦いを避けて中東から逃れて地球全体に広がって行ったとみえます。より良い環境を求めて冒険したとも言えますが、彼らは幾世代も重ねて、遠くアジアの果てから、北米、南米の果てまで行きました。世界中の先住民に同じ洪水伝説があることで、彼らの起源は一つだったことがわかります。
3、歴史に見る権力欲と支配欲
●一般に古代文明は5,6千年前と言われますが、現存するものはすべてノアの洪水後と見るのが良いでしょう。(洪水以前の文明的な遺跡は一度すべて水の下になりましたから、地面の下や海底にあるものが多いでしょう。)
●ノアの洪水以後の文明遺跡はエジプトとシュメール文明(イラク)、そしてインドだと言われます。いずれも大河の下流デルタ地帯です。デルタ地帯は川の氾濫で土が肥沃、そのために農耕が発達したと言われますが、川の氾濫はせっかく作った田畑を破壊しますから、農業は大変な仕事だったと思えます。しかし、人口が徐々に増え、第1次シュメール文明では大学や図書館もあったということですから、人類の知恵や権力者の力は相当のものだったと言えます。エジプト文明も有名ですから、多くの人が王の墓やミイラ、墓からの出土品を見て支配者たちの権力が大きくなったことを推測することができます。
●古代文明で、古代遺跡や出土品から権力者の横暴による一般民衆の不幸を知ることが出来ますが、その最たるものは「奴隷制度」です。強い民族が弱い民族を虐げて奴隷とする、そして権力者が巨大な施設を奴隷の力を利用して建て、自らの権力を誇ること、ここに、権力欲と支配欲が如実に示されています。聖書では、ヘブル民族がエジプトで奴隷となっていたことから、歴史学者は、古代ピラミッドの多くは彼らの在留中に建造されたとみています。近代的な重機がない時代に巨大な遺跡を建造した奴隷の実態は、人間扱いされていたとは到底見ることはできません。
●その後の歴史では、アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマ、オスマントルコなどの帝国は、単に古代文明としてではなく、「野蛮な帝国=世界支配をねらった巨大権力」として有名ですが次の章で詳しく見ましょう。

二、権力欲、支配欲の実態
1、頂点が「帝国支配」と「蛮族の長」
●世界旅行をする、あるいは報道で遺跡などを見ますと、その巨大さに圧倒されます。数十年、あるいは数百年をかけて造らせたという巨大な遺跡は、王や帝国、王朝の権威を示していますが、1%にも満たないであろう王朝一族は多数の部下、兵士を持って国民を支配し、その力を誇示します。王朝の力が弱くて、国民に支配の手が及ばず、税金などが低く、民の生活が安定していれば良いですが、強大で悪しき独裁者、倫理観の薄い帝国では国民は迫害され、しかも、兵士として駆り出され、世界中に帝国を拡張するという野望の犠牲になりました。
●アレキサンダー大王の映画などを見ていても、数十万の兵士の激突という大戦争がなされています。映画としては面白いでしょうが、実際にそこにいた兵士の恐怖はどんなものだったかと想像すると、本当に哀れです。兵士は、勝利すれば相手の国を破壊し、略奪します。敗者はすべてを奪われます。これらは、昔のことだけでなく、最近の戦争でも起こります。ですから、「権力欲、支配欲」の最たるものは、「帝国主義」による戦争、侵略、支配と言えるでしょう。
●歴史をよく学びますと、同じ帝国でも、ギリシャ、ローマ帝国の場合は全てが「悪と罪の権化」という見方は出来ないのではないでしょうか。世界初の共和制も実施していますし、ギリシャ、ローマには近代的な文明も発達しています。キリスト教弾圧という点では大きな罪があったのは勿論ですが、ローマ帝国の進出(覇権)に対して、周辺の諸国がかなり自主的に帝国に加わってきたという証言は、ローマ帝国が「法治国家」であり、周辺の諸部族には法治国家は殆ど存在せず、反対に、「無法の蛮族」、勝手気ままな蛮族王が多数で、ローマ帝国に参加する(併合される)ことを国民が喜んだという実態があると聞きます。また、ローマ帝国分裂後も、西ヨーロッパ諸国は、今のEUとは全く違う、「蛮族」が殆どだったと言われます。民主主義、共和制、文化などと全く無縁の野蛮な民族は心ある庶民にとっては、本当に生きていくことが恐れと悲しみに満ちていたと思います。
●次に、現在でも一部の国に見られる独裁政権の支配ですが、親子二代、三代に続く独裁国家は、殆ど「強盗国家」のようなもので、「ミサイルや核兵器開発、偽札作り、麻薬栽培と販売、外国人拉致による援助獲得」など、国家としての役割はほとんど果たしていないどころか、犯罪によって稼ぎながら、体制を維持するための、核兵器開発と輸出などは世界戦争の最大の危惧となっています。国家主席一族と側近だけに富が集中し、自分たちだけが贅沢をし、国民は全く自由がなく、常にギリギリの生活を強いられています。
●国家の支配者が権力欲、支配欲だけで政治をすることは国民にとっての最大の不幸となります。そういう意味で、日本でも、初めての本格的「政権交代」がなされましたが、官僚、政治家などが「権力欲、支配欲を持って政治をする」のではなく、真に「国民のために政治をする」民主政治になることを、今、多くの日本人が期待していると思います。最近の世論調査で、国民の一番願っていることは「無駄使い撲滅」ということですから、長年の政治のゆがみを正してほしいという期待が大きいことがわかります。
2、社会や組織の中での権力欲、支配欲
●次に、近代、現代の社会での「権力欲、支配欲」について見ます。人間の基本的な原罪は、社会構造の変化の際に際立って現れます。動乱や変革の時に一気に自分の権力や支配を築こうとする人種です。まず、産業革命のとき、日本では明治維新以後の近代化の中で、産業が興る時、初期の資本主義者たちは「独占資本主義」を画策し、労働者を搾取するとことを画策しました。ヨーロッパではキリスト教の影響によって比較的穏便でしたから、急激な社会主義革命となりませんでしたが、東欧諸国では、王政が続いていたことも多く、階級社会が出現して、貧しい労働者による暴力革命が盛んになりました。
●アメリカでも、初期の資本主義は独占と搾取で労働者にしわ寄せが起きたこと、労働運動に対する迫害も多く、「怒りの葡萄」の小説や映画で紹介されています。
●日本でも、「女工哀史」や「蟹工船」に見れるような資本家による搾取が起きましたが、これらすべてが、「権力欲、支配欲」から起きることです。一方の社会主義革命もまた、行きすぎた場合は、逆の側からの「権力欲、支配欲」によるとも言えますが、出発点の動機は、圧政から解放されたいという、欲望以前の人間の正当な主張とも見ることが出来ます。
3、個人の権力欲、支配欲
●一般社会や家庭、個人のレベルでの「権力欲、支配欲」を考えますと、何と言っても、「封建社会」と「家庭の中での封建性」が問題です。
●「封建社会」の場合は、「村社会」が個人を押さえつけるというもので、自由や民主主義、個人の尊厳のない息苦しい社会となります。戦前のように、国家主義と結びつくと、国家宗教ともつながります。
●「家庭の中での封建性」では、「家父長制度」「女性蔑視の思想」などが問題でした。女性に選挙権などの権利がない封建社会では、女性の地位は低く、我儘な夫や家父長の支配の中で人権を踏みにじられた女性が多かったと思えます。(現代でも地方に残っています)
●社会や職場の中では「権力欲、支配欲」は大きな摩擦を起こし、「物質欲」などが絡みますと、「不正」「不当表示」「産地偽装」などの犯罪にまで至ります。また、政治家や官僚が「権力欲、支配欲」に支配されますと国民を犠牲にした悪政となります。

三、私たちが気をつけるべきこと
1、「互いに支配しようとする原罪」*創世記3:16)
●最後に、夫婦間や個人の中での「権力欲、支配欲」の問題を考えます。
創世記3章16節を見ますと、サタンに誘惑されたエヴァは、「・・・しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配するようになる」とあります。ここで、(夫を)「恋い慕う」という言葉は、「支配しようとする」という意味です。次の4章7節でも、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。・・・」とありますが、この「恋い慕う」の意味は「支配しようとしている」という意味です。
●つまり、夫婦とは、「お互いに支配しようとする」ことを主はご存知です。人間同士は、基本的にそうであるとも言えます。ここに気をつけなければいけません。聖書が教える通り、私たちは、支配しようとするのではなく、逆に仕えあい、愛し合い、支えあうために主に導かれ、召されているからです。
2、互いに仕えあいなさい、信徒も牧師も
●支配するのではなく、仕えあいなさい・・・これが聖書の教え、イエス様のことばです。ヨハネ13章の最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちの足を洗われて言われました。「それで、主であり、師でもあるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」14節P.207)
また、「あなたがたがこれらことを知っているなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」17)とも言われました
●また、ペテロは、教会指導者と青年には、次のように教えています。
*Ⅰペテロ5:2-5(P.458)「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心をこめてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」
3、ミリヤムの罪
●ミリヤムの罪は、説明の必要がないほど明快です。モーセ一人が指導者であること、主がモーセにのみ語りかけておられることに大いなる不満を持ち、自分も指導者になろうとしたのです。主の回答も明快でした。ミリヤムは重いツアラートになりました。(ハンセン氏病であったと推測できます)モーセの兄アロンに裁きが下らなかったのは、ミリヤムがけしかけて、兄アロンを巻き込んでいたからです。
●ここで、私たちにとって最も大事なことは、主が介入されたということと、アロンが悔い改め、モーセがとりなしをしたことです。
●信徒が、また役員が牧師を批判し、攻撃を加えて追い詰め、牧師が精神病になる、あるいは、引退に追い込まれる、最悪の場合「自殺」に追い込まれる。こんなことがあれば、その人はミリヤムの罪を犯し、それ以上の罪を犯し、サタンの教会攻撃に加わったことになります。
●もし、牧師自身に重大な過ちがあり、反省もなければ、教会員としての何かの行動が赦される場合もあるかもしれませんが、基本的に、牧師は主ご自身が立てられ、導かれますから、主が裁かれます。主のみちびきと裁きに委ね、とりなしの祈りをする。これ以上の行動は、一歩行きすぎると感情的な対立や分裂となり、「権力欲、支配欲」のとりことなり、サタンの餌食となる恐れがありますから、このことを最も注意せねばなりません。」
大寺俊紀

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2009年9月25日 (金)

2009年9月27日のメッセージ

「物質欲、貪欲」
●聖書箇所:民数記11章31-34節ー罪ととりなし、購いシリーズー①
一、物質欲と貪欲に関係する人間の賜物と環境
1、日本政治の大転換期=平成維新?
●8月30日に行われた総選挙で、日本では初の本格的な政権交代が実現しました。私はこれまで約50年何度も投票を行ってきましたが、一度も経験できなかった本格的な政権交代ですので、大変関心を持って新聞やテレビの報道に目を通し、新しい閣僚たち、「平成維新」あるいは「無血革命」と呼ばれるほどの大改革をするという人たちは、どのような動機で政治家になったのかなどを注目して見ています。
●新内閣が出来て、それまで123年間続いてきた「次官会議」がなくなったということは、今後、実質的に政治家主導の政治が進めば、明治維新によって300年間の幕藩政治が倒れと同じほどの重大なことです。勿論これらが、1,2年で元に戻されることなく、今後も継続して国民の期待に応えて、初めて意味があることです。
●元々大富豪である「友愛」首相の政治的な動機に「物質欲、貪欲や権力欲」があったのか、重要な閣僚たちの政治家としての動機、例えば管さん、前原さん、仙石さん、長妻さんなどの経歴や生い立ちを聞いていますと、確かに大変純粋な正義感で政治家になったことがわかります。また、首相以外は普通の庶民出身です。鳩山首相にしても、特にお母さんが、大邸宅に住んでいながら食事や服装も大変質素で、料亭政治をして、様々な利権を追求しようというような胡散臭さは全く見えませんから、国民はそこに期待して支持率70%以上となっているのだと思います。(今後も不正に走らないことを望みます!)
●政治の内容には具体的に触れませんが、政治家、国のトップに立つ人たちが、「貪欲、物質欲や権力欲」によって政治をしないということはとても大切なことです。東南アジアの多くの王政国家や軍事独裁国家の腐敗、強権、利権政治で見るように、政治家、権力者の多くは貪欲や物質欲、権力欲にまみれて国民を経済的に不幸にしており、さらに彼らの殆どは独裁的な政治支配で、一部の階級が特権的な位置を占め、民主的な政治がなされていませんから、国民には自由がなく大変不幸です。
●政治家でなくても、経済人、教育者、さらに教会指導者に至るまで、(指導者に限りませんが)全ての人が貪欲、物質欲、権力欲に支配されてそれを追求すると、多くの罪を犯し、腐敗と混乱と大多数の国民の不幸が待っていることは間違いありません。
2、自制できない食欲、物質欲の不幸―食欲と肥満の問題―
●次に、「食欲と肥満」などの問題について考えます。
人の性格や賜物は、外形や性格と同じように一人一人異なり、違いがあって当然で、身体が肥っているといけないとか、痩せていなければ美しくない、などは言えません。体型も、ややがっちりしている人、ふっくらしている人、スリムな人・・・人間の好みはいろいろあっても、そこに優劣はありません。それが賜物だからです。食欲のおおせいな人、食の細い人は当然あります。例えば、私の場合は65キロ以上になったことがなく、仮に数日間少し食べ過ぎると、太る前に胃がもたれてきて体が自分で調整してくれます。しかし、これは、一度も太ったことがない父のDNAを受けているためかなと思いますが、子どものころから「武士は食わねど高楊枝」の言葉が好きで、「貪欲に、食べることを追求することは愚かなこと」という思いも強く持っています。パチンコや様々なギャンブルを全く追求しないのも同じ自制心が働くからですが、クリスチャンになってそれが一層安定して、平安のうちにできるということは幸いなことです。
●ただし、私は、自分がこれまで肥満とは無縁だったからと言って、偏見を持っているのではなく、人の違いを理解しようと昔から努めてきました。私は、若い頃に1年半ある会社で大事な仕事を経験したこと、その後30年間野外活動を指導して多くの人たちを見てきたことも現在の働きに大いに役に立っていると思います。例えば、1年半のうちの半分は大規模な遊園地建設(奈良ドリームランド)の設計の仕事をし、あとの半分はその現場の見回り=監督をしていました。その後半の7-8ヶ月、一日中作業着を着て現場を見て回っていますと、ブルーカラーの労働者と一緒で、夜になると体の疲れによって「無性に強い酒が欲しくなる」ということを経験しました。また、現場で働く労働者を観察し、よく話を聞いたのですが、彼らは、ほとんど毎晩数時間(3-5時間)かけて食事をし、大いに酒を飲み、またギャンブルをするという人でした。育った環境もあると思いますが、労働環境がそうさせている=肉体労働は飲酒と食事に貪欲になる=ことも理解できました。
●食事やお酒が過ぎる人でも、肉体労働をしている労働者なら、特別な肥満になることは考えられません。日中にエネルギーを発散するからです。ですから、食事やアルコール摂取過剰、肥満、依存症になる人は、まず摂取と発散、消化のバランスが崩れています。しかし、問題は、精神的な原因です。アルコールだけでなく過度の食事も、ストレスや欲求不満、あるいは人生のモチベーションの低さが過食となり、過度な肥満をもたらします。アルコール依存や、パチンコや競馬競輪などのギャンブル依存も同じです。先週ある報道特集番組でパチンコ依存症のことが報じられていましたが、「幼少期の心の傷」が依存症を発生させるという報告でした。買い物依存症でカード破産する人も同じです。
3、「心の傷」の解決がカギとなる
●アメリカでは、「肥満の人は有力企業に採用されない」と言われます。この場合の「肥満」は「明らかな、過度の肥満」ということですが、その理由は「自己管理が出来ない人だから」と言われます。確かにニューヨークの中心街では、アメフトの選手のように、1メートル90以上の身長で、体重は100キロ近くに見える巨漢のビジネスマンもいますが、彼らは大変「精悍」です。しかし、数年前にアメリカ南部に襲ったハリケーンの映像などを見ますと、被災した貧民層に150キロを超えるような人が大勢います。その人たちは、「貧しいからハンバーガーばかり食べて肥満になる」と報告されています。「失業、貧困、そして過度の肥満」と連鎖しています。アフリカの子どもたちが栄養失調でお腹が膨らんでいたというのとは大きく違うように見えますが、基本は同じです。
●火曜夜8時の番組で、お笑いトーク番組なのですが、様々な特異なキャラクターの人が登場して、本音で話しますので、人間ウオッチングのつもりで時々見ていますが、前回は肥満の人が大勢登場していました。ある女性は、新幹線に乗車する際一人で5,6千円分弁当などを買うが、静岡あたりで無くなると話し、最近50キロ太ったという別の女性は、焼き肉屋を数軒はしごして食べるとのことでした。これに対して、司会者は、「俺は、肥満人間はあほやと思っている」と毒舌を吐きました。理由はというと、「自分の場合は、ある程度食べれば、それから頭を使うが、延々と食べて太る人間は頭を使わない」との弁でした。確かにこれは鋭い皮肉ですが、本質をついています。
●私が小学生の頃、元早稲田大学の先生という方が、隣の家に引っ越してきて、昼間は高校の先生でもされているようでしたが、夕食後は毎晩12時ころまで道路側の机に座って読書をしていました。20畳くらいの部屋は図書館みたいに書籍が並んでいました。夕食後しばらく休憩し、その後また頭を使うのです。絵を描く、あるいは、家族一緒に音楽を楽しむも結構です。映画を見る場合でも、やはり普通に飲酒をすれば、始まったらすぐに眠ってしまうでしょう。夜に何をして過ごすか、そこに、読書や聖書の時間や祈りもあれば、食べ過ぎ、飲みすぎ、肥満からは解放されるでしょう。「食欲、貪欲からの解放」そこには、知性が必要です。信仰も私たちを励まし、自制心を強くします。先ほど触れたとおり、肉体労働の場合は辛いかもしれませんが、信仰があれば徐々に変えられていきます。
●物質欲、貪欲、あるいは、依存症が「心の傷」が原因の場合、まずそこから始めなければいけないでしょう。子どものころ満たされなかった愛の飢え渇きや傷、暴力を受けたことなどもイエス様の愛によって満たされ、心の傷が癒されることが必須です。

二、イスラエルの「貪欲」*民数紀11章(P・248)
1、荒野での生活

●私たちはこれまでに出エジプト記やレビ記、そして今回の民数紀を通してイスラエルの民の荒野生活を見てきましたが、そこにあるのは度重なる「つぶやき」と「不平、反抗」でした。このことを非難する前に、まず、この荒野の生活がどんなものであったかを考えてみたいと思います。
●民数紀1章1節によれば、イスラエルはエジプトを出て2年目です。人口は1,2章で書かれていますが、2章32節では、軍務につく男性だけで60万3千550人とありますから、女性、老人,子どもを入れると約二百万人になります。これだけの大集団がきちっと配置を定められ、ある時は宿営し、またある時は隊列を整えて進みました。中心には幕屋があり、レビ人がそれを守り祭儀を行います。そして、7章89節(P/243)では、幕屋=会見の天幕にモーセが入ると、契約の箱の上にある「贖いのふた」の二つのケルビムの間から、主の御声が聞こえたとあります。また、9章18節、22節(P/246)を見ますと、主の雲が幕屋の上にとどまっているときにはイスラエルは宿営を続け、雲が立ち上ったときは旅立ったとありますから、これは特別な主の臨在あり、他に例えることはできないと思います。
●ただ、強いて言えば、「難民キャンプに近い遊牧民の集団」と言えなくもありません。しかし、普通の遊牧民は草原と水を求めて移動しますし、人間の数は多くありませんから、やはり特別な集団です。畑や果樹園は望めませんから、定着することのできない土地にキャンプしているイメージです。ただ、最も大事なことは、「全能の主が共におられる」ということです。民が、主にあくまでも従い、信頼し、祈り求め。訓練に耐えるかどうかが試されています。
●近年では、内戦があった際、数十万人の難民が出ることがありますが、殆どの場合は国連難民高等弁務官事務所(UHNCR?)が食料などを届けるとか、医師団を派遣しますが、仕事もできず、家も放棄してテントで暮らす生活は悲惨です。
●イスラエルの場合は、国連ではなく、主が共におられるという特別な状況です。そして、水もパン(マナ)も与えられますが、食事としては満足のいくものではないでしょう。野菜や果物がない、肉類も充分ない(家畜の群れがいるが、次々と食べるわけにもいかない)、こんな状況ですから、「肉が食べたい」という気持ちはわかります。
2、激しく泣き叫んだ民
●しかし、11章4節を見ると、彼らは「激しい欲望にかられ、大声で泣いて、『ああ、肉が食べたい・・・』」と言ったとあります。更に、20節を見ると次のことばも発したとあります。・・・「『なぜ、こうして私たちはエジプトから出てきたのだろう』」
 他の章では、エジプトに戻ろうという声も出ていますから、このときも同じ言葉を発した者がいたでしょう。
●しかし、これは、決定的な不信の声であり、主の怒りを受けるものでした。400年間の奴隷のエジプトから解放されたことを悔やみ、元に戻りたいという気持ち、ただ、今の目に見える食べ物が粗末であり、我慢できないというだけで、約束の地が近いにもかかわらず、「約束の地の未来の祝福をすべて捨ててもよい」ということば、これほどの不信仰はないと主は言われます。
●最初、私の30年間の野外活動=社会教育活動に触れましたが、常に数十人の大学生リーダーを見ていて、彼らの(人間の)本質(力量、人間性、適正など)を見抜く一番の場は食事の場面だと気づかされました。
 特にキャンプ中の食事では人格がすべてさらけ出されます。標準的なリーダーの場合は、大体は子どもと一緒に準備をし、一緒に楽しく食べ、片付けも一緒にできます。かなり優秀な人の場合は、常に全体を見渡して、子どもたちに適切に声をかけ、配慮し、楽しく進めます。最も優れた人の場合は、最後の一人まで準備を徹底し、自分は一番最後に座り、片づけに立つときは一番最初であり、途中で何かの不足に気づいた時はさっと行動します。
 しかし、かなり怠け者のリーダーですと、自分は一番最初に席に座り、子どもたちの必要を気にすることなく、反対に「○○取って」「「××持ってきて」などと命令だけします。更に、子どもはほったらかして他のリーダーとのおしゃべりを楽しみ、片付けも食後の活動も指示しないと自ら進んでしません。このような場合、そのグループは常に喧嘩ばかりとなり、テントの中も散らかり、喧嘩が絶えませんし、いじめも起きます。キャンプ中に元気がなく、積極的に行動しなかった彼らですが、キャンプ終了後の打ち上げコンパでは一番喜び、大騒ぎをする・・・・これは常に変わらない実態でした。イスラエルの民の中に不満の嵐をおこしたリーダーも、この種の者が多かったのだろうと推測できます。

三、「主の手は短いか」
1、主の怒りの裁き
●モーセは民からの激しい抗議を受けてたじろぎました。―私には限界です。「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。」14)―これに対して、主は、民の長老70人を集め、彼らにも荷を負わせるようにと言い、彼らの上にモーセの「霊のいくらか」を置きました。また、肉を与えることも約束しました。
●一日分、二日分ではなく、一ヶ月分の肉を与えるということばを聞いたモーセは、民の人数から言って、それは無理でしょうと答えますが、それは主への侮辱となりました。主は、23節の「主の手は短いのだろうか」という有名なことばを残し、「実現するかどうか今わかる」とも言われましたが、31節からを見ると、渡り鳥であるうずらが大量に風に運ばれてきて宿営の上に落とされました。周辺に約一日の道のり、高さ約60センチですから、数百万トンもあったでしょう。民は狂喜してそれらを集め、料理し、口に入れました。
●しかし、肉が彼らの歯の間にあってまだ噛み切らないうちに、主の怒りが燃え上がりました。彼らは、激しい疫病で打たれたのです。
2、主の御力、約束を信じないこと
●「主の手は短いか」ということばは非常に印象的なことばだと思います。「主に不可能はない」と同じです。この絶対の信仰が私たちに救いをもたらします。昨年と最近、二人の人が創造主による創造についてこう言われるのを聞きました。一人は、「進化論が正しいということはちゃんと証明されているのだろう…(だから、創造など馬鹿馬鹿しい)」もう一人の人は、「創造論なんか、正しいと証明されていないのだろう・・・(証明されていないものは信じられない)」でした。
●一人は、進化論は仮説であって、殆どの証拠は否定されているということを全く知らないままであり、もう一人は聞くことなく逃げている、という印象です。どちらも、殆どの日本人と同じです。勿論、進化論も創造論も「実験科学」としては証明されていません。天地創造を人間が実験して証明出来るはずがありません。しかし、「歴史科学」として見た場合、被造物は、創造の多くの証拠を残しています。先週の安井師の話にもあったとおり、鳥や蝶、動物からアメーバに至るまですべての被造物が進化ではなく、最初から完全に創造されていることを見せています。「創造を否定する」、これは最大の罪です。最も主を侮辱することです。畏敬の念を持つことなく、反抗心を持つ、これほど愚かなことはありません。
●主が私たちを救ってくださる。ご自身が私たちの身代わりになって下さって十字架につかれた。また、聖書を通し、数千年の歴史を通しその真実性を保証されている。…これらすべてを聞くこともなく、頭から否定する・・・これが「主は何もできない、主の手は短い」と、主を侮辱することです。
3、私たちへの教訓(反面教師)
●絶対の主、全能の主、その愛を否定すること、イスラエルの場合は、奴隷から解放されて、「約束の地」に入る前です。しかし、彼らは「今、忍耐して、約束を待つ」ということが出来ず、主の激しい怒りを受けました。彼らの不信と犯行は人間の本質的な罪によるものです。人間とは本来これほど愚かで不信仰で忍耐が出来ないものなのです。私は、毎日の祈りをする中で、毎日毎日、こうして祈っている人が100人を超えますが、すでに10年15年以上祈っていることを覚えます。そして、日本人のうちたった1%がクリスチャンだということと併せ、人間のかたくなさを思い悲しくなります。
●イスラエルのかたくなさ、忍耐が出来ないこと、これは、実は、私たちへの戒めとして、反面教師として与えられているという聖書の言葉があります。確かに、もし、イスラエルが完全な信仰を持っていて、一度も戒めを破らず、主の恵みだけを受けて約束の地に入っていたのでしたら、それを聞く私たちは、逆に自分たちの弱さに耐えられないでしょう。彼らのように立派になれと言われてもなれない、自分自身の弱さ、周囲の人たちの不信仰に絶望するに違いありません。
●多くの人は不信仰になり、主に反抗しました。しかし、モーセは取りなしをしました。また、ヨシュアたちはモーセに従いました。多くの者が罪を犯しても、従う者がいれば、主は怒りを静められ、赦しを与えられます。不信仰の世にあって、私たちが果たすべき役割がここにあります。
●また、ヘブル書11:35-39節にあったとおり、初代教会のクリスチャンは、迫害の中でも、忍耐して信仰を守り通しました。命を捨ててでも守る価値のあることを知ったからです。「肉が食べたいから約束を捨てる」というイスラエルの愚かさからみると、なんと素晴ら信仰の力でしょうか。多くの不信仰になったイスラエルは裁きを受け、迫害にも耐えたクリスチャンは救いを受けました。私たちは、信仰の先輩を模範として、「貪欲、物質欲」を捨て、キリストに従って行きたいものです。

●祈り」

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2009年9月12日 (土)

2009年9月第2週のメッセージ

「聖書箇所:ヘブル書12章1-17節
―完全な律法、救いシリーズ ④―
「忍耐をもって走り続けよう」―完全な律法と救いのために―
はじめに:これまで4回シリーズで「完全な律法、救い」というテーマを取りあげて来ました。今日は、その最終回で、ヘブル書だけを読んでいただきましたが「絶対」の存在=絶対者がおられるかということを中心に始めます。へブル書12章は、一言で言うと、「忍耐をもって試練に打ち勝とう」ということですが、私たちの確信と力は、「絶対者」「全能者」永遠に生きておられる方を信じるところから始まり、その方から与えられます。そして、その方がへりくだられ、十字架にまでかかって下さって最高の見本を示して下さいました。

一、人間の弱さ、不信仰

1、ヘブル書のすすめ*12:1-17)
●今日は、最初と最後にヘブル書にふれます。1節では、「私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けよう」とありますね。「競争」というと、他人と先を競うという印象ですが、パウロが言っているのは、「自分との罪との戦い」という意味で、永遠のいのちを得るために罪を捨てて歩もうということですが、4節からは、自分の罪と戦い、私たちの罪がある故に与えられる「懲らしめ」「責め」「むち」などを「訓練と思って耐え忍びなさい」と勧めています。
 そして、この「訓練」は、全能者、絶対者である天の父が、私たちを聖い者にするために、子どもとして扱って下さるからこそ与えられるのですと教えています。その目的は、天の永遠のいのちを受けるために、それにふさわしいものとなるためです。また、罪については、16-17節では具体的に「不品行」や「エサウのような俗悪な者」とならないよういにと教えています。ところで、このような勧めの言葉は、私たちは主からの当然のことばとして受け止めていますが、信仰者でない人はこれをどう見ているのでしょうか?
2、「知識人」の対談から
●「日本人はなぜキリスト教に無関心か?」というタイトルの本がよく発行されます。私も何冊か読んだことがありますが、このことを理解するためには、日本人が書いた本を読むのが良いだろうと思って、最近司馬遼太郎の対談集を読んでいます。
司馬遼太郎という方は「坂の上の雲」などで有名ですが、日本の代表的な知識人、日本の良識を代表する一人かも知れません。これまで司馬さんが多くの方と対談しておられて、それが雑誌などに連載され、また「宗教と日本人」(文芸春秋社)という単行本になっていますので少し取り上げます。
●まず、宗教学者山折哲雄氏(父が浄土真宗の海外布教師、母の実家もお寺)との対談の中で、「自分は、カトリックにも関心が深く、特に、フランシスコ・ザビエルが大好きで、彼のふるさとのスペイン・バスク地方のザビエル城までわざわざ行ったほど好きだ」と言っています。また、明治の文明開化では、カトリックよりもプロテスタントのほうが明治の知識人(内村鑑三、新島襄など)を捉え、文明開化はプロテスタント主義(プロテスタンティズム)を受け入れて、非常に元気の良い、自助の精神に基づいて進められたとの理解をしています。
●しかし、司馬氏は次のように発言しています。
①「相対を超えて、超越したもの、すなわち「絶対」あるいは絶対者ということらしい。アブソリュート、その絶対ということは、明治以降、受容した(受け入れた)哲学その他で、「絶対」という概念がずいぶん入ってきますが、どうもわれわれには、わかりにくいですね。いまだに私にはよくわかりません。」
②「ふつう、イスラムの世界、あるいはモーゼが出てきた頃の古代ユダヤ教の世界、荒野で動物を飼っている遊牧の民たちの世界を思いますと、向こうあたりで成立した宗教というのは、どうも人間を飼いならすシステムではないかと思うのです。人間というのは飼いならさないと―羊や山羊や、牛や馬のように飼いならされないと―野獣なんだということで、飼い馴らしのシステムとして、イスラム教、あるいはそれ以前からあるユダヤ教、次いでキリスト教というのが成立してきたと思うのです。・・・ただ、仏教は飼い馴らしのシステムとして入ってきたというよりは、どちらかというと荘厳(そうごん)なものとして入ってきたという面があります。」(これは性善説に立つ論理です。)
●今の二つの言葉、子どもさんには少し難しいかもしれませんが、これらのことばのように、聖書の真理を知ることがないと、「絶対」ということを理解できない。そして、そのために、キリスト教などを、人間を家畜扱いする宗教だと否定するようになる、ということです。まずこのことを詳しく見ましょう。
3、絶対を知らない「自由人」プライドと原罪
●「絶対」という言葉は、「対立するものがない」ということ、「比べることができないほど偉大」ということです。たとえば、万物は滅びに向かっています。生命だけでなく、物質も必ず古くなり、時間とともに悪くなり、使えなくなってきます。中古自動車を買ってくると、毎年新品になってくるということがなく、最初老人に生れ、段々若くなって、赤ちゃんになると死ぬという映画が最近なりましたが、それは映画だけの話です。このエントロピーの法則は「絶対の法則」です。「万有引力の法則」も地球上では絶対の法則で、例外はありません。「人は必ず死に、そして裁きを受ける」ということばも絶対であると聖書は教えています。絶対を認める私たちは、私たちの存在そのものも「偶然」ではなく、絶対の創造主の創造によると信じますから、罪と十字架によるその赦しも信じます。
●ところが、「絶対」というものを否定する人たちがいます。その人たちは、自分の存在も、空気も水も、「全部偶然」だと言い張ります。そして、「偶然生まれてきたのだから、死後の裁きはない」と聖書の教え、絶対者の裁きという警告を否定します。また、司馬氏のように「絶対ということはわからない」となり、さらに「キリスト教などは人間を飼いならす宗教だ」と侮辱することになります。
●ここで、大事なことは、聖書は何と言っているかです。創世記3章で、人間が悪魔から誘惑をされたとき、悪魔はこう言いました。「あなたがたがそれ(善悪の知識の実)を食べるその時、あなた方の目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知ることを神は知っているのです。」3:5)
 これは、少し難しいと思いますが、「自分が神のようになり、善悪を自分で判断していきなさい」という誘惑です。言い換えると、「絶対者である創造主の神を否定して、自分が絶対者の立場になり、絶対の存在を否定しなさい。そうすると、自由で、楽しいよ。」という声なのです。
 先ほどの方が、「自分は絶対ということがわからない」と言われていましたが、絶対の神を求めて信じなければわからないし、自分を偉いものとして上から見るようになると、自分より上の存在(絶対者)を認めないし、気がつきません。これが、人間の最大の罪の(まとはずれ)なのです。
●二番目に、キリスト教などを「家畜のように飼いならす宗教だ」と話していましたが、そういう言葉が出るのも、全能者、絶対の方を否定し、反抗するからです。「自分は偉いから、神に飼いならされたくない、自分は自由人だ。創造主など認めない」という高慢さが言わしめているのです。しかし、それが罪であり、裁きを受けます。
聖書は次のように言っています。*使途の働き17章30-31節(P・264)
「神(創造主)は、そのような無知の時代(偶像礼拝などを指す)を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神(創造主)は、お立てになったひとりの人(キリスト)により義を持ってこの世を裁くため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

二、絶対の主、全能の主がおられる
1、聖書の真実性が「絶対」の主を示している
●司馬氏は「絶対というものを信じられない」と発言されていましたが、これは日本人の考えを代表するものです。それは、絶対的な存在の方=永遠に生きておられる主がいるはずがないという前提を持っていることによります。
 ですから、「どうせ、聖書は間違いだらけの古文書にすぎない」「神話、おとぎ話のようなものでしかなく、科学的な真実が書かれているはずがない」・・・という先入観で判断しています。また、「神は人間が作った=考え出した=もの」という仏教的な考えに縛られています。これらの先入観に対して、今日は二つだけ説明しましょう。「聖書は絶対者を指し示し、絶対者がおられるからこそ聖書が存在している」ことを。
(1) 聖書の成り立ちそのものが絶対者、絶対の真理を示しています。
(2) 聖書の多くの記述が、絶対者と絶対を証明しています。
●まず、(1)の聖書の成り立ちですが、もっとも古い創世記などの5書は、モーセが約3500年前に書いています。現存する最古の書です。モーセは、天地創造からイスラエルの歴史まで書いていますが、彼以前の歴史や記述は、それ以前からの資料を使うと同時に、彼自身に、創造主が言葉や幻を示して書かせたと言えます。聖書を否定する多くの人は、モーセの時代には「文字はなかった」と主張していましたが、その後の発見で、モーセの千年前のシュメール文明で文字や図書館があったことも発見されています。
●また、モーセ以後新約聖書の完成まで約1600年経過していて、本は66冊、書いた記者が約40人いますが、お互いに会うこと、相談することが出来ないのに、一切矛盾や間違い、その後の訂正がありません。反対に、お互いに同じテーマで書かれ、主人公(救い主キリスト)もおひとりです。
 このことをよく考えて下さい、「人間が書いた本」で1600年間にわたって書かれた66冊の本を一冊にまとめて、一切矛盾、間違い、変更のないものを編集することができるでしょうか?100%いや一万%できません!たとえば、日本は、聖書が完成した1世紀よりも新しい国ですが、聖徳太子の大宝律令から初めて、源氏物語、徒然草、日本書紀、古事記、平家物語、蘭学事始、解体新書、親鸞(歎異抄)や空海の書、さらに、近代以降では学問のすすめなど、学者、政治家、宗教家の書など66冊を編集するとどうなるでしょうか。一切矛盾しない、間違いのない本が出来るでしょうか。決してできません。ですから、聖書そのものの存在が、「永遠から永遠に存在される全能の主の存在」を証明しているのです。永遠に生きておられる絶対の主(ヤハウエ)が人間に書かせた書、それが聖書です。
2、人類の知恵や科学を超えた全能者の知恵が「聖書」
●(2)聖書の多くの記述も、人類の知恵や科学を超えた真理を教えています。「科学を超えた」というのは、科学が間違いという意味ではなく、近代科学がようやく近年発見した真理を、聖書は3千年以上前から正確に記述していて、人類の知恵を超えた「絶対者」であることを示しているということです。どれも絶対に正しいというものはないという「相対」ではなく、真理を遠い昔から教え、一貫して変わることのない方、その方がおられるということが、人類にとっての最大の恵み、喜びとなるということです。
●もし、絶対の真理がなく、地球も、人類も、ひとりひとりの命にも理由や目的がなく、偶然でしかないとすれば、「万物が滅びること=死」に対して一切の希望がないという結論なります。
●しかし、唯一、絶対の真理である方が存在し、その方に死がなく、創造者であり、人類や地球(あらゆる被造物)を救い、裁き、再創造される方でおられ、それらを約束して下さっていれば、そのことは地球や人類にとっての最大の拠り所となります。なぜなら、創造者、審判者、救い主、再創造される方がいるなら、その方を信じて従えば、必ず至福の未来があることになります。
●いくつか具体的に説明しましょう。
①聖書の主は、「神(創造主)が天地を創造した」言われています。*創世記1:1)
②「人類が罪を犯したから怒りにふれ、『死』が入った、万物は滅びるようになった」と教えます。創世記2,3章)
③「今の天地は滅びるが、再創造する」とも教えています。
*イザヤ34:4「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。」詩篇102篇26「すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。」
*イザヤ65:17-18「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。・・・だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」
④その方が、わたしを仰ぎ見て救われよと教えています。
*イザヤ45:18,22節(P。1201)「天を創造した方、すなわち神、地を形造り仕上げた方、すなわちこれを固く立てた方、・・・まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である、この主がこう仰せられる。・・・地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神(創造主)である。ほかにはいない。』」(「主」とは、原語ではヤハウエ=ありてある者、自存する者との意味)
⑤さらに言われます。それは、人類の死を滅ぼされるという約束です。
*イザヤ25:7(P.1162)「この山(エルサレム)で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。」
→お分かりでしょうか?エルサレムの山で死を滅ぼされるというイザヤ書の預言、その預言の約750年後イエス様がエルサレムの山で十字架にかかられたのです。」その方を見上げて、信じる者が救われるためです。
3、絶対者でないと書けない「真理」
●創造と再創造、死の解決…これらが真実であり、絶対の希望であることをどうして知ることができるでしょうか?それは、聖書の記述の中に、「多くの真理が大昔から書かれている」ということによってです。いくつかの例をあげましょう。
①地球は、丸く、宇宙空間に浮いている。(存在している)また、北は17度傾いているから地球には四季がある。*ヨブ記26:7「神(創造主)は北を虚空に張り(傾けの意味)、地を何もない上に掛けられる。」→人類は約500年前まで地球は平面であると考えていた!
②水の循環=雨:*ヨブ記36:27(P.897)「神(創造主)は水のしずくを引き上げ、それが神の霧となって雨をしたたらせる。」→人類は、①と同じく、近代科学が発展するまで、水が循環していることを正しく理解していなかった。
③地球は太陽が爆発したかけらではなく、宇宙塵が集まってできたこと:
*箴言8:26、30「神(創造主)がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに・・・わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。」
●このほか、天体や星座に関すること、動物や恐竜に関することなど多くの記述が、近代科学で人類がようやく気付いたことを3千年以上前から正確に記述しています。ですから、「絶対」なる方、絶対の法則があることを信じることができます。

三、主イエスが最高の模範*2-3)
1、懲らしめ、訓練*へブル12:1-17)

●今日の聖書個所であるへブル12章では1節から信徒への勧めが書かれています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない・」と。
 「訓練、むち、懲らしめ」などは喜ばしいものではありません。しかし、聖書は、全能の主は私たちを救いだし、永遠のいのちに導こうとされていますが、地上での私たちは、16節、17節にあるとおり、多くの「誘惑」や「弱さ」などによって、その恵みから落ちる恐れがあります。また、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」と14節にある通り、地上にいる私たちは、主の訓練を受け、天に挙げられるにふさわしい者と成長しなければなりません。「信じて救われたから、あとは好き勝手に生きればよい」というものではないと主が言われます。
●主イエスも、「あなた方は地の塩、世の光」となりなさいと教えられました。創造主は、聖なる方ですから、私たちがそばに行かせていただけるときは、そのいのちと聖さを受けるのです。ですから、主が私たちを相応しいものになることを願われています。
2、私たちの見本
●私たちは誰を手本とすべきでしょうか。16節では貪欲な者、俗悪な者エサウのようになるなと教え、2,3節では、「イエス様を模範としなさい」と教えています。創造者、審判者でありながら、十字架を忍んでくださり、天の父の御座に着かれた救い主、信仰の完成者です。この方を見上げ、信じ従うとき、恵みと平安、そして力を注がれます。
●18節からは信仰の到達点の素晴らしさを教えています。私たちは永遠の天の都に近づいています。決して揺り動かされることのない(26)世界に導いて下さるのです。私たちを造り、そして愛して下さっているお父様、そして御子イエス様を信頼して従って行くことをお勧めいたします。

●祈り」大寺俊紀

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2009年9月 8日 (火)

2009年9月第1週のメッセージ

信仰の勝利とは」
「―完全な律法、救いシリーズ ③―
はじめに: 夏のキャンプ以来、6年生の子どもさんが礼拝に出席されていますから、今週も、わかりやすくお話ししたいと準備しています。
今日の聖書個所のレビ記26章14-17節Aと、 もう一か所の、ヘブル書11章35-40節 この二つの聖書個所は直接のつながりがあるのでしょうか?レビ記にある言葉通り=主が顔をそむけた結果が、へブル書の人々の苦しみになったのでしょうか?じつは、この二つの言葉の間にはイスラエルの苦難の歴史とイエス様の十字架の赦しということが入っています。十字架の結果、救いがもたらされたのです。ただし、初代教会の人たちは、(その後も)苦しみを受けました。しかし、クリスチャンたちは、その苦しみに負けず、信仰を全うしたのです。このことを学びましょう。
 
一、創造主と人との契約
1、創造主、全能の主、救い主、裁き主なる主とはどんな方か?
1)最初に、「神」と呼ばれる方はどのような方かと言いますと、「創造主、全能の主、救い主、裁き主」なる方です。そのご性質は、「愛」「善」「義」だと言われます。
「愛」は父の愛、母の愛、親の愛です。創造主ですから、ご自身が造られた私たち人間や地球、様々な生き物を愛しておられます。「愛」ですから、私たちが滅ぶことを悲しまれ、救いたいと思われます。
「善」は、悪を憎み、善を喜ばれます。
「義」も同じように、正義を愛され、不正や罪を嫌われ、怒られ、裁かれます。
2)主なる神は、人間を、ご自身と同じように造られました。
人間は動物とは違い、自由や創造性や信仰心が与えられていますから、「無理やり」ではなく、「自分から進んで信じ従う」という「信仰」が最も大事なのです。
3)最初の人アダムとエヴァが罪を犯して以来、全ての人は「罪」を持つようになりました。ですから、主は人を憐み、「一人の人=アブラハム=を選び」後に、イスラエルと呼び、訓練し、教え、契約を結びました。「わたしに従えばあなたの子孫は星のようになる」と。そして、約1000年後にはダビデがイスラエル王国を作り、約束の「恵み」を受けました。
4)しかし、「善」なる方、「義」なる方は、裁かれる方です。何をしても赦す、正しくないこと=不義も赦す方ではありません。罪や不義は必ず裁かれる方ですから、そのことも、イスラエルの歴史を通して教えてきました。
 つまり、イスラエルという国は日本の四国ほどの、大変小さいのですが、罪を犯したために、また計画によって、エジプトに400年間、バビロンに70年間、そして、世界中に散らされて1900年間、合計約2400年間も外国に散らされ、国がなくなったのです。しかし、現在、第二次世界大戦後に再び、国が再建されています。これも、イスラエルのもう一つの約束=悔い改めれば赦されるーがあるからです。
●私は、20数年前にイエス様を信じましたが、一番の理由はこのことでした。つまり、聖書そのものは読んでいませんでしたが、聖書の預言のことを書いた本があり、聖書の預言はすべて完全に実現しているということを知り、聖書を書かれた神は生きておられ、人類の罪を裁かれる方であると確信したからです。
2、契約を守って与えられた「祝福」
●まず、イスラエルが受けた祝福を少しだけ書きます。
①現在の人類の約半分がアブラハムの子孫、②聖書のほとんどはイスラエル人が書いた。③キリストはイスラエル人として来られ、弟子もイスラエル人。④イスラエル人は大変優秀である。世界の富(金融、エネルギーなど)を支配していると言われる。⑤芸術家にイスラエル人が多い。⑥ノーベル賞受賞者にイスラエル人が特別多い・・・などです。
3、契約を破って受けた裁き=北の滅亡と南の捕囚など
次に、イスラエルへの祝福と裁きや戒めの言葉が歴史上のどのところで言われ、どこで実現したかを整理しましょう。
1、約3400年前:選び、契約:イスラエル人は、400年間エジプトで奴隷でしたが、主がモーセを先頭に立てて救い出し、「契約」を結び、荒野で40年間民を教え訓練しました。今から約3400年前のことです。
レビ記は、荒野にいるときに主なる神がイスラエル人と結んだ契約の言葉の一部で、「命令に従わず、契約を破れば、わたしはあなたがたから顔をそむける」と言われています。
創造主なる神が怒って顔をそむければどうなるでしょうか?「戦争に負け、沢山殺され、貧しくなり、食べ物がなくなり、病気が蔓延し、大いに苦しむことになり、苦しみの中で、自分たちが犯した罪に気づく」と言われています。
2、約3000年前:祝福:イスラエルは、今から約3000年前には信仰によって祝福され、イスラエル王国を築きました。平和的な、大変豊かで、尊敬を受けた国になりました。王様はダビデとソロモンでした。
3、約2900-2700年頃:堕落、罪=契約を破る:その後、最初の信仰を捨て、偶像礼拝に堕落(だらく)しました。
=人々は契約を破ったのです。太陽や月、星、あらゆる生き物などを神として偶像(ぐうぞう)を作り礼拝しました。
4、2712年前、2606年前:裁き:紀元前712年、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、国がなくなりました。主の契約を破った罰(ばつ)です。南ユダ王国も、紀元前606年から536年までの70年間バビロン帝国に奴隷として連れて行かれ、国が滅ぼされました。このことも、契約を破った罰です。約700年前のレビ記にあるとおり聖書の言葉は完全に実現したのです。レビ記だけではなく旧約聖書の多くの箇所にあります。
5、紀元70年にも厳しい裁きが起きました:イエス様がこの世に来られ、イスラエル人の訴えによって十字架刑で殺されましたが、死後40年目に三度目の裁きを受けました。今度は、実に約1900年間国がなくなったのです。レビ記にある主の言葉はこのようにすべて本当に歴史的な事実となったのです。

二、新しい契約によって救いが完成
1、聖書の言葉の正しさを知る=信じること
●イスラエルの歴史を通して、聖書の言葉が生きた神の真実の言葉だと気づいた私は、聖書を読みました。1,2時間ルカ伝を一気に読んで15章まできたとき、自分はさまよっている羊であり、イエス様が「さまよっている羊=私=を探すために来てくださった」ということがわかりました。また、「十字架は、私の罪を赦すため、人類の罪を赦すためだった」とわかりました。
2、全人類のための新しい契約
●イスラエル人は動物のいけにえを捧げるなどの多くの儀式を教えられました。十戒や律法を与えられました。しかし、彼らは充分守ることができませんでした。それどころか、「決してしてはいけない」と言われていた「偶像礼拝」の罪を沢山犯しました。
●そこで、主は、新しい契約を与えられました。勿論、それは、変更したというのではなく、初めからの計画だったのですが、人類は律法を守れないということが明確にされた段階で、イエス様を送られたのです。そして、イエス様を救い主と信じた人には「聖霊=助け主」を送るとなりました。助け主=聖霊が、信じる一人ひとりに宿り、その方が一人ひとりに教えて下さるのです。
 イエス様が来られるまでは、イスラエルだけに言葉が伝えられ、イエス様も、弟子たちもすべてイスラエル人でした。しかし、イエス様が来られ、救いを完成してからは、今度は、「全人類」に救いが広がりました。何人でも、だれであっても、信じる人には救いが与えられます。
●前回も見ましたが、エレミヤ書31章には次のように書かれています。
「31:31-34、P.1302)「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。・・・彼らは私の契約を破ってしまった。・・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

三、「天」にある救いの完成を待ち望む人々
1、さらに優れたよみがえり*へブル11:35 P.440)
●次に新約聖書の44ページをご覧ください。(P.440)ここには、大変ショッキングな言葉が並んでいましたね。
●まず、35節には、まず「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあり、次に、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、どういう意味でしょうか?
「死んだ者をよみがえらせていただきました」というのは、イエス様の時代に、イエス様によって多くの人が死からのよみがえりを受けたことだけでなく、パウロやぺテロも「よみがえり」をさせたということです。二か所見て下さい。
*使途の働き9章40節(P.246):ここで、ぺテロはタビタという女の弟子をよみがえらせています。
*使途の働き20章9-12節(P.269)にも、パウロが死んだ青年をよみがえらせています。
●イエス様だけでなく、弟子たちですら死んだ者をよみがえらせたということは素晴らしいですが、「さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました」というのは、それらのよみがえり(死からの蘇生―そせい―という)は、永遠の命=完全な死からの復活ではないということです。
 ラザロやライロの娘、タビタなどは、一度生き返っていますが、彼らはその後再び死にました。ですから、「完全なよみがえり」ではなかったのです。そこで、地上での一時的なよみがえりではなく、完全なよみがえりを願って、拷問されることや殺されることすら受け入れたのです。(子どもたちは拷問=ごうもんということばはわかりますか?)
「キリストを信じることをやめろ」「キリストが死から復活したということを伝えるな」と命じられ、従わないと苦しめられました。それが、36節から書かれていることです。
「あざけり、むち打ち、鎖につながれる、牢に入れられる、石で打たれる、・・のこぎりで引かれる、剣で切り殺される、(家が襲撃=しゅうげきされ、逃げ回り)羊ややぎの皮を着て歩き回った、荒野と山とほら穴と地の底とをさまよい歩いた・・・」ともありますね。
●ローマ帝国時代のクリスチャンはここに書かれているような苦しみの中で、それでも信仰を捨てずに信仰を守ったのです。どうですか?クリスチャンの先輩たちは本当に素晴らしいと思いませんか?こんな人たちのおかげで、今、こうして平和の中で礼拝できるのです。トルコにカッパドキヤという場所がありますが、クリスチャンは何百年という間山の中に洞窟を掘ってそこで暮らし、信仰を守りました。
●中国や北朝鮮ではどうですか?:中国は5千万人から8千万人ものクリスチャンがいるそうですが、私が4日間中国に行ったとき、たった二つしか十字架(教会)を見つけませんでした。二つのうちの一つは玄関が封印され、立ち入り禁止にされていました。ほとんどの教会は十字架を建てずに、倉庫や地下室、都会ならマンションの一室に集まって、警察の目をのがれて礼拝しているのです。十字架の立っている教会は警察官がいて礼拝を監視していますから、ほとんど人は、十字架のない「家の教会」に集まっています。
北朝鮮では、今教会で礼拝している人はおそらく一人もいません。クリスチャンは殺されるのです。もともと、北朝鮮はクリスチャンが多いのですが、今はみな隠れています。反対に、韓国は、国中十字架だらけです。ものすごい数の教会があります。自由のない独裁の国は怖ろしいのです。
2、日本の歴史はどうでしょうか?そして、私たちの役割は? 
●日本ではどうですか?
日本は、今プロテスタント宣教150周年の記念の年です。つまり、約500年前にザビエルが日本に来て、一度クリスチャンが増えましたが、江戸時代に徳川幕府はキリスト教弾圧をしました。「踏み絵」のことをご存じだと思いますが、イエス様の顔を描いた絵を置いて、それを足で踏ませました。それが出来ない者は殺したのです。迫害が300年間続いて明治時代になりました。ひっそりと隠れキリシタンになっていた人もいましたが、明治時代になってやっと信仰の自由が認められ、プロテスタントの宣教も始まりました。
●でも、戦争前には、ふたたび迫害され、戦争に協力せよと命令され、教会の中に日の丸の旗を飾り、君が代を歌ってから礼拝をするようになっていました。それに反対した牧師は逮捕され、投獄されました。命令に従った教会は、みな日本キリスト教団に加盟させられました。当時の多くの教会の指導者たちは国の指導に従い日本の教会を駄目にしましたが、不幸なことに、戦前の指導者たちは口をつぐんだままで(謝罪や辞任をせずに)、戦後も指導者の地位につきました。戦争に負け、本当に自由に礼拝が出来るようになって、まだ約60年です。たった60年ですよ!このことを考えますと、本当に礼拝は大切にしなければいけませんね。
3、全う(完成)されなかった信仰*11:39,40)
●次に今日一番大事だと教えられている39節と40節を振り返りましょう。先輩たちの信仰と勇気です。35節から38節のような苦しみ経験した先輩たちは、信仰を守り抜いたことは証明されましたが、「約束されたものは得ませんでした」とありますね。また、40節には「全うされなかった」ともあります。
●命をかけて守ったクリスチャンの信仰、殺された人も大勢いる、彼らの信仰は「完成されなかった=全うされなかった」というのは、驚くべきことではありません。
私たちは、地上で「永遠の命」を100%手にするということはありません。「いのちの約束」は受けますが、完成されるのはキリストの再臨後です。
●勿論、先輩のクリスチャンのたましい(霊)は、よみに下ることはなく、天に挙げられていますが、まだ、からだは復活していません。それ=救いの完成が与えられるのは、世の終わりのキリストの再臨時なのです。
●そのことは、私たちも同じです。クリスチャンも病気をし、死にます。救いの完成はまだありません。でも、それはもうすぐです。ですから、先輩たちが千年、二千年も待っておられるのですから、私たちも忍耐して、救いの完成を待ち望みましょう。
●(一度話しましたが)最後に、約40年前に韓国で起きた実際の事件を話します。
 50歳、60歳の男性、しかも教会の役員をしていた男たちより、少女の信仰のほうが立派だった話です。この夏から12歳の少女が礼拝で話を聞いて下さっていますが、ぜひ、この少女のような力強い信仰をもって下さり、永遠のいのちを受けて下さるように、最後にお勧めします。   ●祈り」大寺俊紀

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2009年8月28日 (金)

2009年8月30日のメッセージ

永遠の勝利」―天に書かれている名―
1) 聖書:ルカ12章15-21節P.139「・・・いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。15節」
2) ルカ伝10章20節「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

はじめに:今日は、私に関する証しからお話ししましょう。

一、あるホテルに飾ってあった有名画家の作品
●最近、次のようなことが連続してあり、少し考えさせられました。
①一つ目は、あるリゾート地の高級ホテルでランチを取ったときですが、ロビーなどに、ある有名な現代美術画家の作品が多数展示されていました。私が40歳の頃東京と大阪で個展を開催した際に、同じ美術雑誌で掲載されていた方です。(若い頃に同じラインにいた画家が現在は「大家」になっている。他にもこのような方が何名かいます。)―「もし、自分が画家としての成功を諦めずに突っ走っていたら今頃はどうか?」と少し考えました。―

二、音楽は尊重するが美術は・・・という現状
②今年、6月と8月に二度アルパイン・ローズに行きました。6月はセミナー、8月は教会キャンプ。6月にはゴスペル歌手の野田さんを紹介しましたら、早速賛美の時を持たせて下さいました。8月のキャンプでは、水戸さんと一緒に賛美のときを持ちましたが、終わった後で早川さん(副社長)から水戸さんに「VIPに紹介しましょう」とのことばがあったとのことです。どちらも、応援していますから大変素晴らしい事で喜んでいます。
③今週届いたキリスト教新聞を開きますと、最後のページに一面大きな紹介記事があります。韓国人の画家だそうですが、「大きなハンディ」がある方だということです。作品は、こういうものです。美術に関しては、作品ではなくハンディ等の条件があると取り上げられる傾向が強いです。
●このとき、アルパイン・ローズのことを思い出し複雑な気持ちになりました。アルパインも応援していて、過去10回近く行っています。実は、今回のセミナーの期間中に私の作品を(無料で)展示させてほしいと正式に依頼していましたが、全く返事を貰えませんでした。「音楽はすぐに飛びつくが、美術だと徹底的に無視される」、いつもながらのことで慣れていますが、やはりとても残念な思いを持ちました。

三、フランスで成功した藤田嗣次のことば
●20世紀初頭のフランスには、ピカソ、マチス、ブラック、モジリアニなどの天才画家が多数いて、彼らの群れを「エコール・ド・パリ」と呼びます。(パリ派の意味)その中に唯一日本人で成功した藤田嗣次という画家がいます。彼は、日本人らしい繊細な画風で女性や猫を描いたので有名ですが、実は、彼は晩年にクリスチャンになり、亡くなる前に数枚教会の絵などを描きました。そして、彼は最後に次のように言ったそうです。「わたしの人生は罪の中で過ごしたみじめなものだった。だから、罪の中にいるときに描いた作品は、今世間では褒め立てられているが、それらの作品は全く意味がなく、価値もない。私にとって最後の数枚だけが誇れる作品だ。」と。彼は、酒や不品行に溺れていた時代の作品は、世間で認められていても、自分では認めたくないという気持ちだそうです。

四、私が受けた最初の説教(初めて礼拝に参加した時の説教)
●45歳か46歳のある日、私は自宅に一人でいて、導きによってイエス様のことを信じることができ、自分が救われていることが確信できましたので、絵の生徒の中でクリスチャン一家の人を訪ね、その方の行かれている教会の礼拝に始めて出席しました。その日の聖書個所がルカ12章16-21節でした。「ある愚かな金持」
●当時の私は、「こども美術館館長」をしていて少し有名でした。(大阪府の教育委員も)しかし、罪を悔い改めてイエス様の救いを信じたところでしたから、「今日初めて礼拝に出席するからということで、私のためにこの聖書個所が用意されていた。社会的な成功や名声は頼りにできないと強く感じて回心した私に相応しい」と感慨深く感じました。

五、多くの人は、自分のために多くを蓄え、備えるが・・・

―財産や名声のはかなさ ―そこにまことの命はない―
ルカ12章16-21節の「愚かな金持」のたとえは、「お金や財産」だけのことではありません。地位や名誉、自分の働きを蓄え、それを誇り、それを頼りにすることも「それらはむなしいものとなる、そこにいのちはない」と言われています。
先日、ある学者による新聞のコラムを読んでいますと、東京の(実業界、政界、経済界、金融界、マスコミ・・・などの)第一線で働いている人たちは、「生き馬の目をくりぬく」如き、戦いの最前線に立っているという緊張があるそうです。(田舎者の自分は随分のんびりしているなとも再確認)
 そういえば、5月の兄の葬儀で出会った40歳後半のある男性は大金融会社の幹部で、元シンガポール支社の幹部、現在はアメリカ支社の副社長で、来年度は東京本社の筆頭役員だとの内示があったと本人から聞きましたが、私などとても近寄りがたいエリート意識を感じました。勿論、国のため、社会のため、産業や芸術など、様々な分野で活躍して下さることは素晴らしい事ですが、それが自分の誇りになり、一切へりくだらず、安心しているなら、それは「神の前に富まない者」として主の怒りを受けると聖書は教えています。
六、画家藤田嗣次の最後のことばに御言葉の真実がある
●先ほどの画家藤田嗣次が、すべての誇りを捨て、罪を改心して主の救いにより頼んだように、私たちは地上での成功や富や名声などに頼らず、ルカ伝10章20節の「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われた主の言葉を最も大事にして歩んでいきたいものです。」
              09・8・28大寺俊紀

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2009年8月10日 (月)

2009年8月16日のメッセージ

「創造と福音」
●聖書箇所:ルカ15章11-24節
「世界の歴史の中で起こった究極のできごと、それは創造、堕落、洪水、そして救い主キリストの十字架と復活です。聖書は、私たちは救われなければならない存在となったことを教えています。私たちアダムの子孫は創造主に背を向けて生きるようになったからです。その始まりは、最初の人アダムが創造主から離反した時からでした。創造主は十字架で代価を支払い、失った子が戻って来ることをひたすら待っておられます。
イエス・キリストは多くのたとえ話を用いて教えられました。ルカ15:11~は有名な放蕩息子の話です。ある息子が、父が健在であるのに相続財産をもらって父の家を出、湯水のごとく使い果たして飢え死に寸前で父の家に帰る。すると、父は遠くから息子の姿を見つけると走り寄り、口付けをして大喜びで息子として迎え入れるという話です。息子にとっては父の財産が必要であったが父は不要であった。父は、息子の心に父がない、そのことに心を痛めたのでしょう。父が切望していたこととは、息子がした罪を償わせることでもなく財産が戻ってくることでもありませんでした。息子の心が父に帰ってくる、そのことだけを待ち望んでいました。この話は天の父の心、福音中の福音と言われています。
 私たちは自然界の万物を湯水のように使い、その所有者である天の父(創造主)に背を向けて歩んできました。私たちの創造主である父は、全ての赦しと祝宴の準備をし、窓からいつも外を眺めては私たちが心から父の元に帰ることをひたすら待ってくださっています。

記)安井 亨 (バイブル&クリエーション) 
http://b-c.jp
http://gophertree.jp」

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2009年8月 1日 (土)

2009年8月第1週のメッセージ

●今月のメッセージ  2009年7月号-1        
「神は愛なり」
1)Ⅰヨハネ4章16節B「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおります。」
2)Ⅰヨハネの手紙1章9節-2章2節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神(創造主)は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめて下さいます。・・・もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための-私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。」

「先月、わたしは大変素晴らしい話と、衝撃的な話をいくつか聞く機会がありましたので、まずそれを紹介しましょう。
① 最初は6月21日にお招きしたゴスペル歌手、伝道師の野田修司さんによるもので、彼は、大阪出身の元ボクサーで、高校時代に二年連続チャンピオンになったそうですが、挫折の後に薬物中毒になった事を聞きました。しかし、今では完全に癒され、神学校やゴスペル神学院も卒業されゴスペル歌手、伝道師として働いておられます。彼の弟さんも若い頃に暴走族で数々の犯罪を繰り返して少年院に入っておられたそうですが、彼も、その後回心し、180度転換して現在は東大阪市内で牧師をされています。弟さんは、クリスチャン女性と結婚された長男が差し入れた聖書を読んで感動し、「主イエスからの語りかけを受ける」という霊的な体験をされたそうですが、「洗礼を受けたい」という三男のことばを聞いて、次男の修司さんも教会に行き始め、自分も罪を知らされて悔い改め、救いを受けました。
   野田さんの兄弟はご両親の不和と離婚という経験から「愛」に渇望されていたのだと思いますが、わたしが驚くのは、以前離婚されたご両親も、三兄弟も「全員がキリストの愛を受けられ一つにされた」ということです。キリストなくしてこのような「魂の救い」と「和解」が起こることはないと思います。同じような悲しみや苦難を経験する人の多い中、一家揃って人生が180転換させていただき、真実の愛の中に入れられました。創造主は人の心を全て見ておられ、こうして「救済のご計画」をなされる方なのだと教えられます。
② 6月に二人の方が「心筋梗塞」で倒れるということがありました。一人は、わたしの知人のご近所の方ですが、その方は約40年働き、今年3月末にサラリーマンを辞めてまだ3ヶ月、「さあ、これからの人生を楽しもう」とされた矢先のことでした。彼はたばこを買いに出かけ、たばこ屋の前で車を止めて、そのまま動かなくなり、(おそらく数十分後)通りがかった人が中を覗き、緊急事態に気付かれたが既に亡くなっていたということです。私は、彼の罪を論じる気持ちはありませんが、人の命のはかなさや、先が見えないこと、「あなたの若いうちにあなたの創造者を覚えよ」という聖書(伝道者の書12.1)のことばを思い出します。
③ 同じ6月に、全く同じ病気=「心筋梗塞」で倒れたにもかかわらず、「奇跡的に」一命を取り留められた方もいます。その方は教会員の母親ですが、ひとり住まいをされていて、ある日の夕方娘さんと夕食の約束をしていました。もうすぐ娘が来るからと玄関の鍵を開け、ソファーに腰を下ろした直後に心筋梗塞の発作を起こし意識不明になりました。しかし、おそらく1分後(数分以内)に部屋に入って来た娘さんが救急車を呼び、一命を取り留めることが出来ました。彼女は、「奇跡的に助けて下さったイエス様」に心から感謝し、今まで信仰決心の祈りをしてこなかったことを悔い改め、信じたいと強く願うように変えられました。二年前に先に召された夫も教会葬をしていましたから、信じるかどうかをずっと考えていたためです。症状が落ち着いて来たある日、私がお見舞いに行きたいと伝え、承知していただいたのですが、その夜不思議な夢を見たそうです。夢では誰がなんと言ったかは明確ではありませんが、私に対して何度も話していましたから、イエス様から「素直になりなさい」という想いを与えられたのだと思います。そして、私が病室に入るなり「先生、信じます!」とはっきり言われました。
●Ⅰヨハネ4章16節では「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおります。」とありました。野田さんの家族の場合、誰かが野田さんのために祈っていたとか、語りかけていた、指導をしていたなどということは聞いていません。しかし、最初に長男がクリスチャンの女性と結婚し、長男も信仰を持ち、少年院にいる三男に聖書を届けてから奇跡が起きました。
 しかし、奇跡は長男がクリスチャンの女性と出会って結婚したことから始まっています。天におられる創造主なる神は「対立と別離」だけの家庭の中で、「愛」に飢え乾き、悪に走る兄弟を憐れみ、彼らの心に「真実の愛を求める純粋さと、それを伝える者となる力や熱意のあること」を知られて、主自らが家族の中に入って下さったのだと言えます。
 まず、長男がクリスチャンになり、次に獄中の三男が回心し、更に薬物中毒で苦しんでいた次男(修司さん)にも回心を与え、同時にその「愛」を知らせて下さいました。「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおります」を確かなものとして証明して下さったのです。Ⅰヨハネの手紙1章9節~にあるとおり、その罪をきよめて下さいました。そして、空しい人生から、永遠の希望に導き、しかもそれを伝える偉大な使命をも与えて下さっています。
●「心筋梗塞」で倒れ、「奇跡的に」一命を取り留められた方の場合も、母親のために祈っていた娘の祈りを聞かれ、共にいて、奇跡的なわざをなされ、心を動かされて救いを与えられました。その方の信仰は、今後子や孫の世代にも確実に受け継がれていくでしょう。
●これらのことが私たちに教えるのは、創造主なる神は永遠に生きておられ、愛を持って私たちを見て下さっているということです。そして、その救いはキリストによって明らかにされました。キリストは十字架にかかることにより、信じる全てのものの罪を負って下さり赦して下さっているのです。ここに、神(創造主)の愛があります。」
大寺俊紀

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